東アジア歴史・人権・平和宣言行動計画・事務局運営


by e-asia-hhpa


「東アジア歴史・人権・平和宣言と行動計画」(仮称)企画 1趣旨      (全文は文末からリンク)        

(2010年1月12日、1月25日訂正)

1 趣旨 

1)人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容に関する、2001年のダーバン会議の宣言と行動計画は、差別がもたらした地球社会の問題と課題、なかんずく奴隷制と植民地支配の莫大な被害と不法性を明らかにした歴史的文書である。

2)ダーバン会議の精神を引き継いで、東アジアにおける差別と差別の源泉を明らかにし、アフリカの奴隷制に焦点を当てた同会議において議論されることの少なかった東アジアにおける帝国主義の植民地支配の災難を明らかにし、その責任の所在を明確にして、根源的防止策を提案することによって、東アジアにおいて持続的な平和を実現する必要がある。

 略

6)東アジアにおける過去清算という「歴史的人権」の回復と平和は不可分に連結しており、東アジア共同体に向けての最も重要な課題となっている。

7)そこで、2010年日本の朝鮮併合100年を契機にして、2010年8月に東アジアの近現代史を全面的に見直す過去清算のための平和宣言・行動計画を東アジアのNGOを主体として策定する。ここに東アジアにおける過去清算と平和の要求を列挙し、それを実現する具体的な課題を行動計画として提示する。



企画・全文

呼びかけ人

構成


 2010年4月16日UP
宣言・前文(第一次案)2010年4月16日

宣言・Ⅰ 総論(第一 次案)

宣言・Ⅱ 原因と形態 (第一次案)  

宣言・Ⅲ 差別の被害者(第一次案)

宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の一 
 ブログ項目にアップの都合上で其の一から五に分けてあります

宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の二

宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の三

宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の四   

宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の五   

宣言・Ⅴ 東アジアにおける人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容の根絶を目指した予防・教育・保護の措置

宣言・Ⅵ 東アジアにおける人種差別等の被害の効果的な救済、回復、是正、補償その他の措置


「宣言および行動計画・構成案」  2010年4月18日アップ>




「植民地主義の淸算と平和実現のための日韓市民共同宣言」2010.8.22-8.29外部リンク
上記「共同宣言」において
「疑いもなく画期的な意義を有する2001年の≪ダーバン宣言≫は、奴隷制と植民地主義を非難し、再発防止をうたいはしたが、被害補償までは打ち出しえなかった。「日韓市民共同宣言」は「ダーバン宣言」を東アジアにおいて具体化し、それをさらに先に進めていくことを追求する。≪ダーバン宣言≫10周年の2011年に向けては、≪東アジア歴史・人権・平和宣言≫を策定していく」と謳っています。




連続インタヴュー講座
「ダーバン宣言の東アジア版をつくろう――日本の植民地主義を問う」

主催「東アジア歴史・人権・平 和宣言」実行委員会


すでに終了した企画
6.24第一回公開検討会の案内
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# by e-asia-hhpa | 2010-02-19 08:07 | 基本文献
Ⅲ 東アジアにおける人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容の被害者
7.5修正 7.12アップ

A 人種差別等の歴史的形成

27 歴史的被害の確認

東アジア人民が数世紀にわたって人種主義・人種差別・奴隷化の被害者であり、その権利の多くを歴史によって否定された被害者である。その尊厳について公正かつ尊重されて扱われるべきであり、いかなる種類の差別にも苦しんではならない。

28 日本の戦争と植民地支配

東アジアにおける人種差別等の基本形態は、日本帝国主義による戦争と植民地支配によって形成された。その下での被害者の声に耳を傾けることが不可欠である。

29 人種差別等の形成

東アジアにおける人種差別等は、日本帝国主義による戦争と植民地主義の諸段階に応じて、順次形成され、深刻化していった。

30 アイヌモシリ侵略

アイヌモシリに対する侵略と植民地支配は、1869年、アイヌモシリ(蝦夷)を北海道と改めて以後、本格化した。それ以前から、例えば、15世紀におけるコシャマインの抵抗、17世紀におけるシャクシャインの抵抗に知られるように、和人(日本人)の蝦夷地への進出、アイヌ民族に対する差別や酷使が続いていた。1874年から1904年にかけて、日本政府は屯田兵を送り込んで北海道の「警備」と「開拓」を行ったが、屯田兵とはまさに侵略の尖兵にほかならない。1899年、日本政府は「北海道旧土人保護法」を制定し、アイヌ民族の自由と権利を剥奪した。1997年のアイヌ文化保護法は「文化保護」に限られた。2007年の国連先住民族権利宣言採択後に、ようやく日本政府はアイヌ民族を先住民族と認め、アイヌ政策を検討中であるが、アイヌの先住民族の権利をまだ認めていない。

31 沖縄/琉球侵略

沖縄/琉球に対する侵略と植民地支配は、1879年の琉球処分以後、本格化した。それ以前から、15世紀に成立した琉球王国に対して、17世紀に薩摩藩が侵略して、事実上の植民地支配を布いていた。琉球処分以後、沖縄は定刻の版図に組み入れられ、ウチナンチュに対する皇民化政策が推し進められ、第二次大戦時には沖縄戦により沖縄人は日本軍に殺され、「集団死」を強いられるなど、筆舌に尽くし難い被害を被った。第二次大戦後、いわゆる「天皇メッセージ」により、沖縄は住民の意思とは関係なく、一方的に米軍統治下に委ねられた。1972年の「沖縄復帰」後も、在日米軍基地の多くが、民意に反して沖縄に押し付けられたままであり、安全保障の名の下に沖縄に対する日米の支配が続いている。2009~10年、米軍普天間基地問題の解決を唱えた鳩山由起夫内閣は、結局、米軍基地を沖縄に改めて押し付ける日米合意を取り結んだ。

32 台湾侵略

台湾に対する侵略と植民地支配は、1895年の清朝による「台湾割譲」以後、本格化した。台湾領有戦争では、現地住民による激しい抵抗運動を武力により徹底弾圧し、その後は「内地延長主義」が採用されたが、1930年の霧社事件の後は皇民化政策が採用された。1945年の中華民国成立により日本統治は終了したが、サンフランシスコ条約発効とともに日米安全保障条約が締結され、同時に日華平和条約が締結されたことで、日本は国共内戦に深く関わり、台湾に影響力を行使することになった。

33 朝鮮侵略

朝鮮半島に対する侵略と植民地支配は、1905年の乙巳保護条約(第二次日韓協約)   および1910年の韓国併合条約(韓国併合ニ関スル条約)以後、本格化した。植民地化の根拠となった一連の条約には、外交文書としての成立過程、文書自体の性格・特徴から、その成立が疑われるものが多い。このため単なる植民地化ではなく、武力占領だったとの理解もある。朝鮮人民は、東学農民戦争から始まり、併合前後の義兵闘争、1919年の3.1独立運動、1930年代の抗日武装闘争など、日本による植民地支配に対する激しい抵抗運動を行ったが、日本軍はこれを武力弾圧し、植民地支配を維持した。統治方式は、時期により武断政治や文化政治などさまざまな特徴を有するとされるが、土地調査事業による国土の略奪、「国語(日本語)」常用、神社参拝、創氏改名などの皇民化政策、さらには第二次大戦期の強制連行・強制労働、日本軍性奴隷制(「従軍慰安婦」)、志願兵・学徒兵・徴用・徴兵などに本の総動員体制の中で、朝鮮人民を奴隷状態に置いて抑圧した。

34 サハリン・南洋侵略

日本は、1905年、サハリン(樺太)に上陸し、ポーツマス講和条約以後、樺太を植民地化した。続いて、1914年、第一次大戦に参戦し、当時ドイツ領であったミクロネシア一帯を占領し、「南洋群島」と呼び、1919年、国際連盟による委任統治領とした。1933年、日本は国際連盟から脱退し、徐々に委任統治領を日本領土に変質させていった。第二次大戦時、南洋群島は日米両軍の激戦の地とされ、現地住民は多大の被害を被った。ペリリュー島やアンガウル島は日米両軍による激戦地となり、島の形状まで大きく変化したといわれる。バナバ島やナウル島の住民は各地に強制移住させられた。日本軍による住民虐殺や略奪も報告されている。タラワ島やマキン島の激戦では日本軍が全滅したが、そこには多くの朝鮮人軍属が含まれていた。第二次大戦後、サハリンはソ連領となった。敗戦後、日本人は本土に引き上げたが、朝鮮半島から移住させられていた朝鮮人は置き去りにされた。他方、南洋群島は国際連合の下、アメリカの信託統治領となった。

35 中国侵略

中国東北部への侵略と植民地支配の結果、日本は、1932年、旧「満州国」を捏造した。中国侵略の本格化は、1928年の張作霖事件、1931年の「満州事変」により、続いて1937年の日中戦争(「支那事変」)でいっそうの激化をもたらし、その結果として、1941年の「太平洋戦争」に拡大したが、中国における戦争と占領、交戦と虐殺、略奪と搾取は天文学的数字に達した。

36 第二次大戦における侵略と占領

第二次大戦は、一般に真珠湾攻撃から始まったとされるが、実際には真珠湾攻撃よりもマレー半島のコタバル攻撃が先であった。日本軍は、フィリピン、ベトナム、マレー半島、シンガポール、タイ、ビルマ、インドネシア、東ティモールなどを占領した。占領行政のあり方は地域によって異なるが、現地住民への差別、神社参拝の強要、資源の略奪、強制労働、女性に対する性暴力など、さまざまな被害を与えた。日米両軍による戦闘が行なわれた地域では、戦闘に巻き込まれるなど現地の被害はさらに甚大であった。

37 侵略・占領による被害

日本帝国主義による占領下、植民地支配下における政策が、東アジア人民の自己決定権、文化、アイデンティティを破壊し、取り戻すことのできない被害と苦痛を与えたことを確認する。

B 脱植民地過程

38 継続する植民地主義

日本帝国主義による占領や植民地支配が終了して以後も、日本における植民地支配の清算の不十分さから、「継続する植民地主義」とも呼ばれる残滓が随所に見られることになった。

39 カイロ・ポツダム宣言

第二次大戦終了後、日本政府は、カイロ・ポツダム宣言による日本領土(本州、北海道、九州、四国およびその他の島嶼)以外の領有権を剥奪されたが、同時に日本在住の旧植民地・占領地出身者たちのあらゆる権利を剥奪した。

40 東京裁判とサンフランシスコ条約

第二次大戦後、極東国際軍事裁判において日本の戦争犯罪者が裁かれたが、裁判は欧米を中心とした西欧諸国によって担われ、アジアの被害地域が除外されたために、日本がアジア太平洋各地で行った戦争犯罪と人道に対する罪の多くが未解明に終わった。1951年の対日講和条約(サンフランシスコ条約)も「片面講和」と呼ばれたように、アメリカを中心とする西側諸国との講和によって日本を「国際社会」に復帰させることが優先された。このため、日本はアジア太平洋における侵略と植民地支配、戦争犯罪と人道に対する罪の責任を問われることを免れた。

41 日韓条約と日中共同声明

サンフランシスコ講和条約以外に、日本は、1965年の日韓条約、1972年の日中共同声明など、アジア各国との二国間協定によって戦後賠償を進めたが、戦後賠償が実際には日本資本主義の海外進出を先導する結果となり、また、個人被害者の手にはほとんど届けられることがなかったことが、東アジア地域における和解の未達成という帰結をもたらした。

42 日本の外国人管理政策

日本政府の外国人管理政策は、1947年の外国人登録令以後、本来差別的なものであり、人種・民族差別等の残存、再生産をもたらしてきた。このことが今日に至るまで、日本における人権意識の欠如、民主主義の不十分さを招いている。

C 東アジア地域社会の構成員(人民・先住民族・移住者・難民・マイノリティ)

43 東アジア地域人民の権利

 東アジア人民が、文化と自己のアイデンティティへの権利、政治・社会、経済・文化生活における自由で平等な条件で参加する権利、自己の欲求と慣習の文脈で発展する権利、自己の組織形態・生活様式・文化・伝統・宗教様式を維持・持続・促進する権利、自己の言語を持続・使用する権利、自己の伝統的知識や文化遺産・芸術遺産の保護への権利、住居が自然に更新されて供給される使用・享受・保存への権利、特別に特徴的なものも含む教育制度・教育課程の設定・実施・発展に積極的に参加する権利、適用できる場合には先祖伝来の居住地への権利が認識されるべきである。

44 人種差別等の廃止に向けて

東アジアにおいて、人民が、公の制度でも私的にも、支配的な社会的偏見と差別の結果としての障害に直面していることを認め、この地域の人民が直面しているあらゆる形態の人種・民族差別等の廃止に向けての努力が必要である。

45 東アジア地域人民の貢献

数世紀にわたって人種差別等に直面してきたにもかかわらず、東アジア地域人民は、彼女ら/彼らが居住する諸国の経済・社会・政治・科学・文化生活に貢献してきたし、いまも貢献していることを確認する。

46 先住民族の被害

先住民族は、数世紀にわたって差別の被害者であった。東アジアにおける先住民族も、数世紀にわたって差別の被害者であった。先住民族が尊厳と権利において自由かつ平等であって、いかなる差別、とくに先住民族の出自とアイデンティティに基づく差別をされてはならない。先住民族に影響を与える人種差別等の継続を克服する行為の必要が続いている。

47 先住民族の貢献

東アジアにおける先住民族の文化と遺産の価値と多様性は、社会の発展と文化的多元主義、および社会のすべての局面での完全な参加への先住民族の格別の貢献、とくに先住民族の関心のある問題での貢献が、政治的社会的安定や、先住民族が居住している各国の発展にとって基本的である。

48 先住民族のイニシアティヴ

先住民族が人権と基本的自由を完全に実現することが人種差別等の廃止にとって絶対に必要であるという確信を強調する。先住民族が市民・政治・経済・社会・文化的権利を完全かつ平等に享受し、先住民族に特徴的な性質やイニシアティブを尊重されつつ、持続可能な発展のためになるよう促進するという決定をしっかりと確認する。

49 先住民族の権利

先住民族が自己のアイデンティティを自由に表明し、権利を行使するために、先住民族がすべての形態の差別から自由であり、当然のことながら人権と基本的自由の尊重が伴うことを強調する。先住民族の権利に関する宣言案の交渉において先住民族のために普遍的な認知が保証されるよう努力がなされている。先住民族の権利には以下のものが含まれる。自己の名前で呼ばれる権利、居住する自国の政治・経済・社会・文化的発展に自由かつ平等に参加する権利、自己の組織・生活様式・文化・伝統を持続する権利、自己の言語を持続・使用する権利、居住する地域において自己の経済構造を持続する権利、教育制度・教育プログラムの発展に役割を果たす権利、狩猟・漁業など自己の土地と資源を管理する権利、司法に平等にアクセスする権利。

50 先住民族の土地の権利

先住民族がその精神的、肉体的、文化的存在の基礎として土地との間にもっている特別の関係を認め、可能であれば、先住民族が国内法で保障されている自己の土地と資源の所有権を保有できるよう各国に促す。

51 移住者の貢献

移住者が、出身国でも受け入れ国でも、経済・社会・文化に積極的に貢献することを認める。

52 移住者の法的枠組み

移住についての日本の法的枠組みと政策が、適用可能な人権文書・規範・基準に合致するべきであり、人種差別等から自由であることを保証するよう立案されるべきであると再確認する。

53 移住者に対する人種差別等

移住者に対する人種差別等の現象と行為、および移住者に適用されるステレオタイプに懸念を留意し、強く非難する。裁判管轄権のもとで移住者の人権を保護する各国の責任を再確認する。移住者を不法行為や暴力行為、とくに人種差別と、個人や集団が人種主義や外国人排斥の動機で行った犯罪から保全・保護する政府の責任を再確認する。移住者が社会で、職場で、公正、正義、公平な取り扱いを受ける必要があることを強調する。

54 移住者への差別の克服

日本において、移住者に対する人種主義と外国人排斥の現象を廃止するために、移住者とその他の社会構成員との間の調和、寛容、尊重を増大させるのに役立つ条件をつくる意義を強調する。家族がともに暮らすことが統合に積極的な影響を与えることを強調し、各国に家族の再統合を促進するよう強調する。

55 難民・難民申請者

人種差別等、人びとを難民や難民申請者として自分の出身国から強制排除したり、移動せざるをえなくさせることに関心をもって留意する。

56 難民等への差別

人種差別等との闘いの努力にもかかわらず、とりわけ、難民や難民申請者、国内避難民に対する人種差別等のさまざまの形態の事例が継続していることも懸念をもって認める。

57 歴史を記憶すること

人類史が重大人権侵害の結果としての多くの残虐行為に満ちていることを自覚し、歴史を記憶することによって将来の悲劇を防ぐことを教訓として学ぶことができると信じる。近現代日本史が重大人権侵害の結果として多くの残虐行為に満ちていることを自覚し、歴史を記憶することによって招来の悲劇を防ぐことを教訓として学ぶことができる。

58 悲劇を忘れない

近現代日本史におけるジェノサイドや人道に対する罪の悲劇は、決して忘れてはならない。

59 マイノリティの保護

民族的・言語的・宗教的マイノリティは、強制移住、ジェノサイドおよび同化政策による文化ジェノサイドから保護され、集団的アイデンティティを維持・発展させる権利を有し、地域的・全国的決定過程に効果的に参加する権利を有すること、国家はその条件整備のために積極的措置を講じる義務を負う。

60 マイノリティの権利

民族的・言語的・宗教的マイノリティないし先住民族に属する者は、子どもも含め、個人として、また帰属集団・共同体の他の構成員とともに、自己の文化を享受し、自己の宗教を宣明・実践し、自己の言語を使用する権利を有することを認める。国家は、それらのマイノリティおよび先住民族に、マジョリティと平等にいかなる差別もなく、人権と基本的自由を保障するべきである。

61 ジェンダー視点

人種差別等が、女性と少女にとって、男性に対するのとは異なる形態で行われ、教育、雇用、健康など、生活の多くの領域において不均衡に否定的影響を及ぼし、搾取的労働や暴力など、人権の制限や否定を導く要因となりうることを認識する。そうした複合的な差別に対処するために、人種差別等に反対する政策、戦略、行動計画にジェンダーの視点を必ず導入すべきである。

62 女性に対する人種差別等

女性に対する人種差別等のために、女性が市民的・政治的・経済的・社会的・文化的権利を完全に享受し、行使する上で直面している不利益・障害・困難の実態を調査し、当事者の意見を政策に取り入れるためのよりシステマティックで一貫した方法を発展させる必要がある。

63 子どもと若者

人種差別等の被害者に、子どもと若者、とくに少女の数が多いことに関心をもって留意し、子どもの最善の利益と子どもの意見の尊重の原則に従って、これらの慣行の被害者である子どもと若者の権利と状況に優先的な関心を払うため、人種差別等と闘う計画に特別な措置を盛り込む必要がある。

64 子ども労働

子ども労働が貧困、発展の欠如、関連のある社会経済条件に結びついているので、ある場合には、影響を受ける集団の子どもに、生産生活において必要とされる能力を身につけ、経済成長から利益を得る機会を不釣り合いなほどに否定することによって、貧困と人種差別を永続化してしまうことを認める。




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# by e-asia-hhpa | 2009-07-20 15:53
Ⅳ 韓国併合100年における植民地主義と差別(第一次案)
      ――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史 其の一



1 2010年は韓国併合100年に当たり、韓国併合による植民地支配の反省を訴える日本の市民によるさまざまなアピール、集会、学習会の取組みがなされていることを歓迎する。しかし、同時に、日本政府による朝鮮人差別や、日本社会における心ない差別と排外主義が噴出していることを指摘せざるをえない。

2 2010年4月、日本政府は高校無償化を導入したが、朝鮮学校への適用を見送り、朝鮮学校の教育課程を確認するという名目で第三者委員会なるものを設置したという。背景には、2010年2月の大臣発言に始まった政治問題化があり、政治問題を教育現場に持ち込む差別的処遇がなされている。2010年2月24日、人種差別撤廃委員会において差別への懸念が語られた。3月11日、同委員会は、同様に朝鮮学校排除と政治問題化を差別的な影響をもたらすものと指摘した。さらに2010年5月28日、子どもの権利委員会においても同様の指摘がなされた。それにもかかわらず、日本政府は差別政策を取り続けている。

3 朝鮮学校に対する差別政策は、一貫して長期的に採用されてきた。朝鮮高級学校卒業生の大学受験資格問題では、文部科学省がしつように朝鮮学校排除を推進してきた。多くの私立大学においては、「高等学校に準じる」規定の適用によって受験を認めてきたのに対して、文部科学省はこれを否定し、とりわけ国立大学には受験させないように規制してきた。今日では国立大学も朝鮮学校卒業生の受験資格を実質的に認めているが、必ずしも文部科学省の差別政策が変化したわけではない。

4 人種差別撤廃委員会の日本政府に対する勧告でも言及されているように、助成金や免税措置についても、朝鮮学校に対する差別が続いている。中央政府による助成金は終始一貫して皆無である。一部の地方自治体による助成金があるが、金額は僅かである。朝鮮学校への寄付金についての控除(免税措置)が認められていない。アメリカン・スクールなど外国人学校にも認められているのに、朝鮮学校だけを排除している。

5 日本政府による差別は、1948年の阪神教育闘争、1965年の文部省通達、1968年以後の外国人学校法案問題、1995年に解決したJR通学定期券差別、看護士資格差別など、現象形態は時期によりさまざまに変化してきたが、一貫して続いている。近年の重要な変化は、かつては朝鮮学校を含む外国人学校と日本学校との間の差別であったが、最近では、朝鮮学校とその他の外国人学校の間にも差別を設けて、朝鮮学校だけを徹底的に差別する方針が貫かれていることである。

6 日本政府による朝鮮人差別の根幹には、在留資格問題と出入国管理問題があった。ここでも近年、変化が見られる。それは、差別政策の動因がもっぱら朝鮮人差別と管理であった時代と異なり、最近では新たな移住者に対する差別と管理が前面に出てきていることである。永住者とそれ以外の外国人との間の差別がたくみに設けられている。2009年の新在留管理制度関連法も、外国人の管理と選別を目的としている。

7 国民年金差別も日本政府によって一貫して採用されている。かつては朝鮮人全体を年金制度から排除していた。1982年改正により、朝鮮人も年金制度の適用を受けるようになったが、必要な経過措置が採られなかったことにより、朝鮮人高齢者と障害者について差別が産み出されることになった。もっとも必要な人に対する年金が消されてしまった。2001年8月の「経済的社会的文化的権利に関する国際規約」に基づく社会権規約委員会による是正勧告、2008年10月の「市民的政治的権利に関する国際規約」に基づく自由権規約委員会による是正勧告にもかかわらず、日本政府は差別政策を改めようとしない。

8 東京都による日比谷公会堂使用拒否に見られるように、朝鮮人の公的施設使用に対する拒否が行われている。同時に民間施設においても、朝鮮人に対する使用拒否、使用許可の取り消しが行われることがある。東京都による使用拒否は、裁判所による救済があったので、日本政府が差別を行ったわけではないが、日本政府によるさまざまな差別に便乗・同調して、地方政府が朝鮮人差別を露骨に行った事例である。それが民間施設に対しても負の影響を及ぼしている。金剛山歌劇団の文化公演に対する妨害も行われている。

9 日本社会における差別も枚挙に暇がないが、今日、注目しなければならないのは、新たな排外主義と差別の煽動の顕在化である。社会の底流に存在してきたさまざまな陰湿な差別とは別に、朝鮮人組織、朝鮮学校などに押しかけて暴力行為や差別発言を繰り返す、ヘイト・クライム(憎悪犯罪)がはびこっている。中国人やその他のアジア系外国人に対しても暴力、恫喝、嫌がらせが続いている。

10 2009年12月4日、在特会(在日特権を許さない市民の会)と称するヘイト・クライム集団が、京都朝鮮第一初級学校に押しかけ、同校がグランドとして使用していた公園で騒ぎ、器物損壊、差別、名誉毀損、侮辱の言説を撒き散らし、強要、恫喝を繰り返した。日本の市民による在特会に対する抗議行動も広範に取り組まれているが、警察は在特会を取り締まることなく、その後も犯罪的行為が継続している。2010年2月14日および3月28日にも、在特会などは京都朝鮮第一初級学校に向けての排外主義のデモ行進を行った。

11 2009年11月、在特会は、東京都小平市の朝鮮大学校にも押しかけ、同校正門前で朝鮮人差別の煽動行動を繰り返した。同様に、在特会は、東京、福岡など各地にある在日本大韓民国民団本部や支部に押しかけ、誹謗中傷を繰り返してきた。名古屋市立博物館における歴史展示を妨害し、京都府のウトロ地区や大阪市の生野地区など朝鮮人集住地域において排外主義デモを行い、民族差別の言辞を撒き散らしてきた。在特会は、埼玉県蕨市においてフィリピン人家族に対する排外主義デモを行ったのを手始めに、東京秋葉原でも排外主義デモを行い、東京池袋における中国人商店に対しても営業妨害行為を行うなど、朝鮮人、中国人、その他の外国人に対する差別行為を続けている。

12 在特会に代表される排外主義と差別の隆盛については、日本経済の落ち込みと不況による失業や労働の不安定化、不安定雇用の底辺に置かれた若者の不安とストレス、経済大国から脱落しつつある日本の現状への不安とこれに呼応したナショナリズムなど、さまざまな要因が指摘されている。同時に、1990年代に本格化した、日本軍性奴隷制問題を典型とする戦後補償要求運動(日本による侵略戦争や植民地支配に関連する被害者個人への補償要求運動)への政治的反動、感情的反発に由来する歴史の歪曲、歴史教科書問題などに関連するイデオロギー的逆流現象があったことも忘れてはならない。

13 1990年代における「従軍慰安婦論争」「南京大虐殺論争」「歴史教科書論争」は、日本の侵略戦争や植民地支配の責任を逃れ、そのために侵略戦争や植民地支配を美化し、事実を歪曲・隠蔽し、被害者を侮辱し中傷する政治傾向を生み出した。テレビ・映画・音楽などの文化的分野における「韓流」ブームにもかかわらず、政治的には「嫌韓流」が意図的に作り出され、日本の歴史と伝統の誇りを呼号する「愛国心」が叫ばれるようになった。

14 その結果として、「愛国心」に反すると見做されたすべての人々や出来事を「反日」と断罪し、激しい攻撃が加えられるようになった。朝鮮人、中国人、アジアやラテン・アメリカからの移住者、難民認定申請者に対する排外主義と差別は、在日朝鮮人の人権、戦後補償運動、移住者の権利、難民認定申請者への支援運動を行っている日本人に対しても、激しい敵意をむき出しにした攻撃を続けている。東京都三鷹市における「慰安婦」展、兵庫県宝塚市や西宮市における「従軍慰安婦」問題の解決を求めるアピール行動に対する妨害行為がその代表である。こうした差別と排外主義に反対して立ち上がった市民に対しても、2009年12月19日、東京都飯田橋で開催された集会や、2010年3月28日、京都市河原町で行われたデモ行進などに対して、在特会は実力行使による妨害行為を続け散る。

15 他方、不動産業者および地主による、朝鮮人を始めとする外国人に対する賃貸ビル・アパート・マンション入居差別が、長期にわたって報告されてきた。社会的差別も、時期によりさまざまな現象形態となって現れる。高等学校体育連盟によるスポーツ大会への朝鮮学校参加、JRによる朝鮮学校生徒の通学定期券除外問題などは1990年代に解決したが、クレジット・カード入会、ゴルフ場会員権などにも差別が発覚することがある。銭湯における入浴禁止、公共プールにおける利用禁止、一般商店における入店禁止など、各地で異質な他者に対する敬遠・偏見に由来する行為が報告されている。

16 現在の日本国家による差別と日本社会における差別は、それぞれ無関係の別個のものではなく、相互に支えあって構造的差別を形成している。国家による差別が、社会における差別と不寛容に根拠を与えている。政府が公然と差別をしている社会では、一般の人々にも差別が許されているというメッセージが常に発せられている。政府の言明とマスメディアの伝達により、差別がいっそう強化されている。社会におけるさまざまな差別現象は、政府が日本国憲法と国際人権諸条約に基づいて適切に対処しなければならないが、日本政府は、それどころか社会的差別を温存することにより、政府の怠慢を弁解している。社会的差別が国家による差別の正当化、無視、隠蔽を支えている。

17 現在の日本国家による差別と日本社会における差別の原因と形態は、本宣言   でも触れたことであるが、差別の現代日本的形態を的確に理解し、被害者の状況を把握するためには、近現代日本史の総体的分析を必要とする。

18 東アジアにおける人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容の被害者を明らかにするという、本宣言に必要な限りで考察する場合にも、近代日本による植民地主義の歴史が中軸にすえられる必要がある。近代日本における植民地主義は、少なくとも、第1に、台湾や朝鮮半島に対する侵略戦争(植民地化戦争)、第2に、植民地化した地域における植民地政策、そして最後に脱植民地過程(とりわけ植民地責任の未清算)の3つの局面にわたって検討される必要がある。

19 本宣言において用いられている「朝鮮人」という言葉そのものが、このような日本の植民地主義の変遷過程によってさまざまに刻印され、多義的で、かつ論争的な言葉となってきたことを指摘しておかなければならない。在日朝鮮人、在日韓国人、在日朝鮮・韓国人、在日コリアンなどさまざまな呼称が用いられ、時に激しい論争を必要とすることになったこの言葉は、日本による植民地化戦争、植民地政策そして脱植民地過程を通じて、変容してきた歴史的諸関係を反映している。本宣言では、「在日朝鮮人」を、朝鮮半島出身者およびその子孫を指す言葉として用いるが、これらの言葉をめぐる定義問題に立ち入らない。

20 日本による朝鮮植民地化は、豊臣秀吉による朝鮮侵略戦争や、江戸時代におけるさまざまな朝鮮侵略思想といった底流を持つが、近代における植民地化は、屯田兵によるアイヌモシリ(蝦夷=北海道)日本編入、小笠原諸島の日本編入、琉球処分に始まる沖縄県設置と続いた「国内植民地」の時期を経て、台湾および朝鮮半島に触手を伸ばす対外的進出として具体化した。「日清戦争」が終結した後、大日本帝国は、1895年10月、ロシアの影響排除を目的として朝鮮政府の権力構造に実力で介入し、朝鮮王宮に進攻し朝鮮政府軍、官僚、女官、王后を虐殺した。現場首謀者はソウルにおける外交の最高責任者、領事・三浦梧桜以下であり、日本軍と連携をとり景福宮に侵入した。これらの行為に対して日本政府による真相究明はいまだ取組まれていない。

21 乙未事変(ウルミサピョン)と朝鮮政府内での前年からの甲午改革(カポケピョク)による近代的改革の推進に対し、朝鮮民衆は義兵闘争を起こした。

22 1904年、ロシアと日本の緊張が高まり、「日露戦争」を開始し、1897年に国号を変えていた大韓帝国に対して、軍事力を背景に「議定書」、「日韓協約」を強制締結させた。1905年、日露戦争の収束後、日本は一方的な「乙巳保護条約」と言われる「保護条約」を「特派大使」として乗り込んだ伊藤博文が大韓帝国皇帝・高宗(コジョン)を威嚇し、武力示威を後ろ盾に調印を強要した。これらの強制的な「保護条約」により、日本による強制占領が開始された。これに対して、1907年、高宗はオランダ・ハーグで開催された第二回万国平和会議に秘かに特使を派遣し、乙巳条約の不法と強要、侵略を世界に広く知らせようとした。しかし、日本は天皇陸仁の名のもと高宗皇帝を息子に強制譲位させ、軍隊を解散させ、内政権を掌握する協約締結を強要し占領政策を強化した。朝鮮民衆は義兵の決起を続け、軍人の抗日闘争が起きソウル市内で日本軍と市街戦になり、軍人は義兵部隊に合流した。義兵戦争が拡大し、抗日戦争となった。義兵の戦死者2万人、民衆へのジェノサイド数万人ともいわれる日本軍の暴力支配の究明が求められる。「日清戦争」「日露戦争」とは、日本側の呼び名にもかかわらず、朝鮮植民地化のための侵略戦争であった。

23 1909年10月26日、安重根(アン・ジュングン)はハルビン駅構内で伊藤博文・朝鮮統監府前統監を射殺した。日本外務省管轄下にある関東都督府地方法院における審理で、安重根は、侵略者・伊藤博文の罪を予審訊問や法廷で述べ「国土と民衆」を蹂躙したこと、韓国と東洋の平和が侵害されている現実とその責任を挙げ「東洋平和論」を述べた。しかし、1910年3月26日、殺人の罪で処刑された。同じ1910年、日本では天皇殺害計画があったとして社会主義者たちを壊滅させる大弾圧として大逆事件が「発覚」した。幸徳秋水ら12人が処刑された大逆事件の弾圧と、韓国強制併合は同時進行であった。

24  1910年8月22日、日本はソウルにおいて、日本軍の圧力の下に、大韓帝国に併合条約を強制締結させた。

25 日本による朝鮮総督府は三権を掌握し、憲兵・警察を駆使した暴力支配で日本への同化主義を採用し、朝鮮人による新聞・雑誌発行を認めず、宗教以外の自主的社会活動を認めず、占領、植民地支配を徹底した。これに対して、朝鮮人民は、抗日独立運動の闘いを継続した。

26 日本は、国策会社であり天皇・皇族が大株主の東洋拓殖会社に、政府補助金により土地の買収を進めさせた。1910~18年の「土地調査事業」で日本が接収した土地のうち1万1400町歩が、東洋拓殖会社に現物出資され、植民地経営の一翼として朝鮮人小作農に貸し付け、最大の地主として植民地支配を支えることになった。農民は過酷な条件により生活を圧迫され、離農を余儀なくされ、移住労働者にならざるを得なかった。

27 1919年のパリ講和会議で、「民族自決」「植民地問題の公正解決」が国際的な議論となった。日本に留学していた朝鮮学生は、この国際情勢を独立の機会と考え、「朝鮮青年独立団」を組織し、独立宣言書と決議文を発表した。民族の生存権を主張した「2・8独立宣言」である。かくして「3・1」独立運動が決起した。パコダ公園に学生・市民が集まり独立宣言書を朗読し、太極旗をもち、「独立万歳」を叫んで市内で示威運動を展開し た。宣言書は「吾等はここに朝鮮が独立国であること、朝鮮人が自主の民であることを宣言する」に始まり、「侵略主義、強権主義の犠牲となって10年の間に生存権が奪われたこと。子孫に安全な幸福を導き迎えるには民族的独立を確実にする」と記された。

28 朝鮮全土で200万人余りの民衆参加があり、中国東北地方にも広がった反日独立闘争に対し、日本の警察と軍隊は、銃剣で厳しい弾圧を加え、京畿道水原の堤岩里虐殺を含め7000人を肥える民衆虐殺、5万人近くの逮捕者というというジェノサイドを行なった。独立闘争はおさえられたが、3・1運動はアジア各地の民衆に多大の影響を与え、近代史上最大の反日独立闘争であった。

29 このため、斉藤実・朝鮮総督は、暴力支配を根幹とする治安維持政策とともに、朝鮮民衆への懐柔と分断政策を進めた。この時期、民衆は新たな抵抗運動を組織し、集会・結社・言論活動を広げ、労働運動、農民運動、衡平運動を闘い始めた。同時期の日本本国の民衆による1918年の女性たちの決起を契機とした米騒動、1919年の労働運動の勃興、1920年の朝鮮民衆も参加した「日本社会主義同盟」の結成と、天皇制国家権力に対する闘いにおいて、朝鮮民衆と日本民衆の相互影響、共同闘争の萌芽を見ることができる。

30 その後、朝鮮独立運動は中国に展開し、臨時政府として上海に統合された。中国東北部の間島地方での武力闘争も続けられた。日本軍は、1920年8月、「間島地方不逞鮮人焦土計画」を立てたが、同年10月、金佐鎮部隊が青山里において日本軍に壊滅的打撃を与えた。その報復として、日本軍は、1921年4月まで間島地方の朝鮮人村落においてジェノサイドを敢行し、当初の2ヵ月間だけで殺害3600余名、婦女強姦70、家屋放火3200軒との報告に見られる暴虐を行った。


宣言・Ⅳ 韓国併合と差別其の二

宣言・Ⅳ 韓国併合と差別其の三

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Ⅳ 韓国併合100年における植民地主義と差別(第一次案)
      ――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史 其の二



31 1923年1月、独立活動家・申采浩(シン・チェホ)起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」は、独立闘争の理念と具体的行動を宣言した。それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが、民衆における階級問題や親日派への批判を明確にし、3・1独立宣言の限界を越える内容としていた。

32 1923年9月1日、日本の「帝都」東京周辺において関東大震災が起きた。政府、軍隊は、震災発生直後に戒厳令を施行するとともに、在留朝鮮人を脅威とするデマゴギーを流布した。震災直後から、軍隊や警察による朝鮮人虐殺が始まり、官憲の命令や教唆によりつくられた民衆による自警団の手による虐殺も含め、少なくとも6000人余りが虐殺され、「関東大震災朝鮮人ジェノサイド」となった。

33 1930年代以降も、中国東北部でのコミューンを拠点にした独立闘争、民族主義の立場での抗日戦争、中国や台湾、日本国内における闘争は続いた。一方、日本の「大東亜共栄圏」の版図は、抗日戦争、独立闘争を担う朝鮮の人々にとって戦場であり 義烈団や民族主義団体、社会主義グループによる抗日武装闘争、さらには数知れぬ名もなき民衆による非協力・不服従の抵抗が、取組まれた。

34 大日本帝国の民衆弾圧は、本土・国内においては治安維持法=特高警察体制、大逆罪弾圧として現象し、朝鮮植民地支配における軍事暴力と対をなしていた。台湾や朝鮮を侵略し、植民地支配、占領した日本は、本国刑法を支配地において準用し、民衆の動きを徹底弾圧した。これに対して、独立活動家の一部は大日本帝国の中枢、天皇を攻撃目標とした。

35 朝鮮の労働者は、不当な違約金徴収、日本人との賃金格差も極端化し、賃金労働者の生活は困窮した。1921年、釜山の埠頭労働者争議を皮切りに争議が増加した。なかでも1929年の元山ストライキは最大の争議となった。しかし、警察や日本軍400名の動員により弾圧された。朝鮮人労働者を主体とする労働運動、組合結成、争議は日本国内でも取組まれ、朝鮮では光州学生闘争、新幹会の結成など民衆闘争も持続された。

36 日中戦争の激化からアジア・太平洋戦争への進展に伴い、1938年には、大政翼賛組織の国民総力朝鮮連盟が結成され、中央本部は朝鮮総督府に置かれ、朝鮮人労働者、軍人、軍属の「皇国臣民」化を進めた。中国侵略完遂のため、朝鮮民衆を大日本帝国に組み込むため、創氏改名、「東方遥拝」、「君が代」斉唱、「日の丸」掲揚、「御真影」と称する天皇の肖像への礼を強要した。朝鮮での徴兵実施に向け、1941年、朝鮮総督府は朝鮮語の学習を廃止し、「国語」として日本語使用を強制した。戦時体制強化のため「陸軍特別志願兵令」を公布し、徴用令その他様々な手段を通じて強制連行・強制労働を行った。最悪の軍事的性暴力であった日本軍性奴隷制(従軍慰安婦)も朝鮮女性を最初の犠牲者とした。

37 日本による朝鮮侵略(植民地化戦争)と植民地支配のもとにおける被害は、計量不能である。この間の人的被害については、虐殺や逮捕の数を推定することはできる。強制連行・強制労働や性奴隷制被害者の数も推定することはできる。しかし、被害は、虐殺や強制連行だけではない。政治的弾圧、経済的搾取、文化破壊、これらを通じた家族崩壊、人格への打撃は、およそ計量化することができない。朝鮮民族全体に対する甚大なジェノサイドの被害は、数値化不能である。物的損害も同様である。土地調査事業、地下資源の収奪はもとより、あらゆる可能性が収奪、略奪、破壊、消尽された。

38 日本による朝鮮植民地支配に異論を唱えた民衆は、僅かであるが、実在した。石川啄木、金子文子、布施辰治、槇村浩・・・などの名前を歴史に刻むことも忘れてはならない。それは朝鮮に肩入れした日本人がいたことを誇るためではない。朝鮮を始めとするアジア民衆と真に連帯し、友好を築き上げる日本人の責任を喚起するためである。

39 今日も続く在日朝鮮人に対する差別は、以上の植民地主義の帰結であり、日本の脱植民地過程が植民地支配を清算することなく、あいまいにされた結果でもある。第二次大戦敗北後、日本は連合国による占領下に置かれ、人権指令による戦後民主化、日本国憲法の制定、極東国際軍事裁判所(東京裁判)による一部の戦犯裁判を経た。しかし、大日本帝国の侵略戦争と植民地主義の最大の責任者であった天皇の責任が問われることなく、天皇は象徴天皇に移行した。極東国際軍事裁判所に朝鮮人民の代表者は招待されず、日本による朝鮮人民に対する犯罪が裁かれることもなかった。アジア各地におけるいわゆるBC級裁判においては、日本国家の犯罪の責任が朝鮮人に押し付けられた。連合国は朝鮮人民を、一方では解放された人民としながら、他方では監視と抑圧の対象とした。その結果、日本は朝鮮植民地支配の責任を問われることなく、領土の喪失という形での脱植民地過程を経ただけであった。

40 日本民衆の間でも、第二次大戦末期における連合国による空襲、ヒロシマ・ナガサキの被曝、および、樺太、旧「満州」、朝鮮半島など植民地からの引揚者の苦労話など、日本人の「被害」のみが語られることになった。日本が侵略したそれぞれの地の人民の苦難は省みられることがなかった。強制連行され、アジア各地に放置された朝鮮人のことも、日本人は速やかに忘れた。

41 第二次大戦後、日本政府は迅速に在日朝鮮人差別政策を推進した。最初に行ったのが、大日本帝国最後の勅令(ポツダム勅令)である1947年5月2日の外国人登録令であり、「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」として、それまで日本国籍を押し付けられて日本人とされてきた朝鮮人を一方的に外国人とした。朝鮮半島が政治的混乱状態にあったこともあり、当時60万人を超えたといわれる在日朝鮮人が、その意思を問われることも選択権を認められることもなく、一夜にして無国籍者とされるという、世界史上まれに見る暴挙であった。

42 1947年10月、連合国最高司令官の指令によって、在日朝鮮人が日本の教育基本法、学校教育法のもとに置かれることになった。1948年1月24日、文部省学校局長は通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」を出し、在日本朝鮮人連盟などが朝鮮民族の教育を行うために各地につくった国語講習会を閉鎖し、朝鮮人を日本学校に組み入れることにした(「朝鮮学校閉鎖令」)。これに対して、大阪府、兵庫県を中心に、朝鮮人は民族教育を守る闘争を展開した。1948年4月の阪神教育闘争とは、朝鮮民族が民族教育を求めて立ち上がり、これに日本人も協力して、大衆闘争として展開された。しかし、アメリカ軍憲兵や日本の武装警官隊により暴力的に弾圧され、朝鮮人1名が殺害され、数多くの負傷者と逮捕者を出して収束した。公安資料によると検挙者は7295名であった。同年5月5日、文部省は朝鮮学校を私立学校として認可すると認めた。

43 在日朝鮮人に対する差別は、朝鮮半島の政治的分断、とりわけ朝鮮戦争という複雑な要因により、いっそう特殊な形態を与えられた。第二次大戦終戦の歴史的経過の中で、38度線(軍事境界線)による分断が始まった。1948年8月15日、朝鮮半島南部に大韓民国が樹立されると、同年9月9日、北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立した。1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、南北、およびアメリカ、中国による激烈な現代戦が戦われた。1953年7月27日に休戦協定が締結されたが、今日に至るまで和平が実現されていない。朝鮮半島の分断、とりわけ朝鮮戦争が、日本にとってもった意味は、まず何よりも植民地支配の清算を一切行わずに済んだことである。ドイツと異なって、敗戦国の日本は分断されることなく(ただし、沖縄等の問題は別に残る)、朝鮮半島が分断されることになった。さらに、日本は朝鮮戦争による特需によって経済復興を果たすという僥倖に恵まれた。しかも、日本列島は朝鮮戦争に出撃するアメリカ軍の軍事拠点となり、その後のアジアに対する軍事侵略の拠点につながった。日本政府は、朝鮮半島分断を奇禍として政治利用し、アメリカの意向に従って大韓民国に肩入れした。同時に、在日朝鮮人に対する分断が始まった。


宣言・Ⅳ 韓国併合と差別其の一

宣言・Ⅳ 韓国併合と差別其の三

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# by e-asia-hhpa | 2009-06-10 15:46
Ⅳ 韓国併合100年における植民地主義と差別(第一次案)
      ――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史 其の三


44 1947年の外国人登録令を受けた、1952年4月28日の外国人登録法は、「外国人の登録を実施することによつて外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もつて在留外国人の公正な管理に資することを目的とする」としたが、当時の在留外国人のほとんどが朝鮮人と中国人であり、これは朝鮮人を管理・弾圧するための法律であった。在留外国人の在留資格を不安定なものとし、日本に居住・生活する人間としての権利さえ認めない政策がとられた。

45 1965年6月22日、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓条約、日韓基本条約)」が締結された。これにより、日本による韓国併合のために大韓帝国との間で結ばれた諸条約が「もはや無効」(日本側)とされ、日本政府は大韓民国を朝鮮半島唯一の合法政府であると確認し、日本が韓国に経済援助を行うことで国交正常化を行った。韓国民衆も、日本民衆も、日韓条約反対運動を激しく繰り広げた。問題は数多いが、特に、第1に、朝鮮植民地化および植民地支配の歴史的検証がなされることなく、併合条約の評価も日韓双方に相違を残したままの条約であった。第2に、分断状態にあった朝鮮半島の一方の政府を唯一の合法政府とすることによって、分断を固定化させる役割を果たした。第3に、植民地支配の下での被害者個人への補償・救済が不十分に終わった。第4に、分断が在日朝鮮人社会に持ち込まれることが予想されたことなどである。

46 阪神教育闘争以後、在日朝鮮人は全国各地に朝鮮学校を設立して、自らの手で民族教育の権利を実現した。これに対して、日本政府は、植民地支配責任を一切取ることなく、それゆえ朝鮮学校に当然なすべき援助を一切行わなかった。それどころか、日本政府は朝鮮学校を管理・抑圧し続けた。1965年に文部省次官通達により、朝鮮学校差別政策を推進し続けた。さらに、1968年3月に外国人学校法案が国会上程され、朝鮮学校に対する差別と抑圧を目的としたが、朝鮮人のみならず在留外国人および日本人も加わっての大衆闘争によって、法案は何度も阻止され、1972年に外国人学校法案は廃案となった。他方、東京都小平市に朝鮮人が建設した朝鮮大学校の認可も政治闘争課題となったが、1968年、東京都はこれを認可した。

47 日本における「歴史教科書」問題は、非常に歪んだ政治問題として知られている。日本によるアジア諸国への「侵略」を「進出」と変更させた文部省検定以来、事あるごとに内外の政治問題となってきた。1990年代以後は、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」「沖縄集団死」などの記述をめぐって歴史修正主義とこれに抗する市民の対立が激化してきた。個別の論点だけでなく、歴史教科書における朝鮮半島に関する記述の全体が、日本を中心に、他者=朝鮮人を見下す視線で描かれているとの指摘もなされてきた。他方、国連人権理事会のドゥドゥ・ディエン「人種差別問題特別報告者」や、2010年3月11日の人種差別撤廃委員会は、日本政府に対して、在日朝鮮人などの少数者が、日本社会において貢献してきた歴史的事実を記述するよう勧告した。

48 朝鮮学校に対して、日本政府は一切の援助を行っていない。地方自治体による助成金があるが、非常に僅少である。朝鮮学校に対する寄付金についても控除が認められていない。この点は、日本学校との差別だけではなく、外国人学校の中でも朝鮮学校に対してだけわざわざ差別が導入されている。JR各社(旧日本国有鉄道)は、文部省の要請のため、朝鮮学校生徒について通学定期券の発行を認めなかったが、広範な民衆の運動によって、1995年に通学定期券発行を認めた。朝鮮高級学校卒業生の国立大学受験資格差別も、1995年8月の国連人権委員会差別防止少数者保護小委員会(小委員会)にNGOから報告があったのを皮切りに、国連人権委員会や小委員会で繰り返し報告されるなど、内外の批判にさらされ、2003年8月11日の文部省による「弾力化」方針により、不十分ながら一応の解決を見た。2010年の高校無償化からの朝鮮学校除外問題に至るまで、つねに意図的に露骨な差別政策がとられてきた。

49 就職差別



50 1965年の日韓条約から25年後の1991年に、在日朝鮮人の在留資格を見直すこととされていたため、「1991年問題」を迎え、日本政府は、とりわけ人権侵害と批判に強かった指紋押捺の強制および外国人登録証常時携帯義務については一定の改正を施した。

51 1980年代後半から、日本による戦争と植民地支配による被害者たちの権利要求運動が始まった。1990年代には、戦後補償運動と呼ばれるようなさまざまな運動が広がり、日本政府に対して被害者への謝罪や補償の要求が突きつけられることになった。半世紀遅れの「正義の回復」要求であった。被害者は、強制連行・強制労働、軍人軍属、日本軍性奴隷制(従軍慰安婦)、七三一部隊・細菌戦、南京大虐殺、重慶爆撃、捕虜虐待・強制労働など実に多様な問題の被害者たちであった。終戦から半世紀を経て、高齢と病気に苦しむ被害者たちが人間の尊厳を求めて立ち上がった運動は、世界に大きな影響を与えた。1990年代における旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷(ICTY)、ルワンダ国際刑事法廷(ICTR)、そして1998年7月に採択された国際刑事裁判所規程に基づいて2002年に設立された国際刑事裁判所(ICC)、さらには東ティモール、シエラレオネ、コソヴォ、カンボジアに関して設置された「国際化された法廷(混合法廷)」など、国際刑事司法は、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイドなどを重大な国際犯罪とした。世界各地における重大人権侵害の「不処罰の連鎖」を断ち切るための運動の先頭に、日本による戦争と植民地支配の被害者たちがいた。

52 重大人権侵害の犯行者を裁き、被害者に対する謝罪と補償を実現し、再発防止を求める世界的運動のなかでも、1990年代に飛躍的な発展が見られたのが、女性に対する暴力、とりわけ戦時性暴力問題である。ここでもアジア各地の日本軍性奴隷制被害女性の闘いが重要な役割を果たした。1993年12月10日、国連総会は「女性に対する暴力撤廃宣言」を採択した。1996年4月、国連人権委員会は、ラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」による「日本軍性奴隷制問題報告書」を採択した。1998年8月、人権委員会差別防止少数者保護小委員会は、ゲイ・マクドゥーガル「戦時性暴力問題特別報告者」の報告書を採択した。これらの特別報告者は、日本軍性奴隷制に関する日本政府の法的責任を認定し、被害者への謝罪と補償を日本政府に対して勧告した。これらの勧告を実現する闘いの先頭を切ったのが、韓国、朝鮮、台湾、中国、フィリピンの被害女性(サバイバー)たちであった。2000年12月には、「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が東京で開催され、1990年代から続いた戦後補償運動のピークとなったが、ここには約70名もの被害女性(サバイバー)が集まった。

53 日本社会における朝鮮人差別の被害者や現象形態も時代とともに変化してきたが、「チマ・チョゴリ事件」は、日本社会の特質を如実に示すものとして、国連人権委員会、人権小委員会などに報告されるとともに、世界のメディアにも取り上げられた。1989年、日本国会において「パチンコ疑惑」騒動が起きると、朝鮮学校に通う女子生徒に対する差別・暴言・暴力事件が各地で頻発した。1994年、「北朝鮮核疑惑」問題に伴って、同様に各地でチマ・チョゴリを斬る事件が頻発した。この頃から「チマ・チョゴリ事件」と呼ばれるようになった。1998年の「テポドン騒動」、2002年の「拉致問題」、2006年以後の「人工衛星・ミサイル」発射や「核実験」問題に際しても、朝鮮学校に対する脅迫電話、無言電話が続き、女子生徒に対する暴言・暴力事件が相次いだ。これは社会における差別と犯罪であるが、犯行者が男女年齢を問わなくなってきたと指摘されている。被害者は朝鮮高級学校生徒のみならず、朝鮮初級学校(小学校)の年少生徒にも及んでいる。加えて、犯行が路上、電車の駅構内など公開の場で行われているにもかかわらず、犯行者がほとんど逮捕されないことも、人種差別撤廃委員会や子どもの権利委員会に報告されてきた。社会における差別を日本政府が放置している好事例である。

54 在日朝鮮人差別には、さまざまな現象形態があり、被害者も一様ではない。朝鮮総連、朝鮮学校が標的とされることが多いが、「嫌韓流」に見られるように韓国も差別対象とされてきた。また、日本社会には、本名を名乗らず「通名(日本名)」を名乗って暮らしている朝鮮人もいる。朝鮮人であることがわかると露骨な差別にさらされるために、本名を隠して生きざるを得ない状態そのものが構造的差別の証である。

55 2002年9月17日、日朝間で締結された「平壌宣言」は、歴史認識について日韓条約よりも一歩踏み込んだと評価される面もあるが、国家間の経済協力方式を採用し、被害者への個人補償を否定している趣旨と見られ、戦後補償運動からは批判がなされている。他方、朝鮮政府が日本人拉致問題を認めたことから、日本社会の感情的反発が激化し、財に朝鮮人に対する差別と犯罪を誘発するとともに、「制裁」によりヒト、カネ、モノの遮断が行われ、朝鮮人団体関係者に対する弾圧捜査、政治問題化とマスコミ過熱報道により排外主義があおられている。現在の高校無償化からの朝鮮学校除外問題もその延長上にある。

56 在日朝鮮人の人権擁護運動は、民族団体の組織、民族教育の形成・確立、自由と平等を求める差別撤廃運動など、在日朝鮮人自身が立ち上がることによって多彩に取り組まれてきた。日本社会においても、日韓連帯、日朝連帯の運動とともに朝鮮人の人権擁護のための取組みが続き、戦後補償運動などとともに、思想的にも実践的にも大きな成果をあげ、日本社会に少なからぬ影響を与えてきた。

宣言・Ⅳ 韓国併合と差別其の一

宣言・Ⅳ 韓国併合と差別其の二


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