東アジア歴史・人権・平和宣言行動
2010-09-12T11:16:44+09:00
e-asia-hhpa
東アジア歴史・人権・平和宣言行動計画・事務局運営
Excite Blog
「東アジア歴史・人権・平和宣言と行動計画」(仮称)企画
http://easiahhpa.exblog.jp/12891566/
2010-02-19T08:07:00+09:00
2010-09-12T11:16:44+09:00
2010-02-19T08:07:20+09:00
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基本文献
「東アジア歴史・人権・平和宣言と行動計画」(仮称)企画 1趣旨 (全文は文末からリンク)
(2010年1月12日、1月25日訂正)
1 趣旨
1)人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容に関する、2001年のダーバン会議の宣言と行動計画は、差別がもたらした地球社会の問題と課題、なかんずく奴隷制と植民地支配の莫大な被害と不法性を明らかにした歴史的文書である。
2)ダーバン会議の精神を引き継いで、東アジアにおける差別と差別の源泉を明らかにし、アフリカの奴隷制に焦点を当てた同会議において議論されることの少なかった東アジアにおける帝国主義の植民地支配の災難を明らかにし、その責任の所在を明確にして、根源的防止策を提案することによって、東アジアにおいて持続的な平和を実現する必要がある。
略
6)東アジアにおける過去清算という「歴史的人権」の回復と平和は不可分に連結しており、東アジア共同体に向けての最も重要な課題となっている。
7)そこで、2010年日本の朝鮮併合100年を契機にして、2010年8月に東アジアの近現代史を全面的に見直す過去清算のための平和宣言・行動計画を東アジアのNGOを主体として策定する。ここに東アジアにおける過去清算と平和の要求を列挙し、それを実現する具体的な課題を行動計画として提示する。
企画・全文
呼びかけ人
構成
2010年4月16日UP
宣言・前文(第一次案)2010年4月16日
宣言・Ⅰ 総論(第一 次案)
宣言・Ⅱ 原因と形態 (第一次案)
宣言・Ⅲ 差別の被害者(第一次案)
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の一
ブログ項目にアップの都合上で其の一から五に分けてあります
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の二
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の三
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の四
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の五
宣言・Ⅴ 東アジアにおける人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容の根絶を目指した予防・教育・保護の措置
宣言・Ⅵ 東アジアにおける人種差別等の被害の効果的な救済、回復、是正、補償その他の措置
「宣言および行動計画・構成案」 2010年4月18日アップ>
「植民地主義の淸算と平和実現のための日韓市民共同宣言」2010.8.22-8.29外部リンク
上記「共同宣言」において
「疑いもなく画期的な意義を有する2001年の≪ダーバン宣言≫は、奴隷制と植民地主義を非難し、再発防止をうたいはしたが、被害補償までは打ち出しえなかった。「日韓市民共同宣言」は「ダーバン宣言」を東アジアにおいて具体化し、それをさらに先に進めていくことを追求する。≪ダーバン宣言≫10周年の2011年に向けては、≪東アジア歴史・人権・平和宣言≫を策定していく」と謳っています。
連続インタヴュー講座
「ダーバン宣言の東アジア版をつくろう――日本の植民地主義を問う」
主催「東アジア歴史・人権・平 和宣言」実行委員会
すでに終了した企画
6.24第一回公開検討会の案内
]]>
Ⅲ 東アジアにおける人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容の被害者
http://easiahhpa.exblog.jp/14013159/
2009-07-20T15:53:00+09:00
2010-07-12T09:09:24+09:00
2010-06-20T15:55:18+09:00
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未分類
7.5修正 7.12アップ
A 人種差別等の歴史的形成
27 歴史的被害の確認
東アジア人民が数世紀にわたって人種主義・人種差別・奴隷化の被害者であり、その権利の多くを歴史によって否定された被害者である。その尊厳について公正かつ尊重されて扱われるべきであり、いかなる種類の差別にも苦しんではならない。
28 日本の戦争と植民地支配
東アジアにおける人種差別等の基本形態は、日本帝国主義による戦争と植民地支配によって形成された。その下での被害者の声に耳を傾けることが不可欠である。
29 人種差別等の形成
東アジアにおける人種差別等は、日本帝国主義による戦争と植民地主義の諸段階に応じて、順次形成され、深刻化していった。
30 アイヌモシリ侵略
アイヌモシリに対する侵略と植民地支配は、1869年、アイヌモシリ(蝦夷)を北海道と改めて以後、本格化した。それ以前から、例えば、15世紀におけるコシャマインの抵抗、17世紀におけるシャクシャインの抵抗に知られるように、和人(日本人)の蝦夷地への進出、アイヌ民族に対する差別や酷使が続いていた。1874年から1904年にかけて、日本政府は屯田兵を送り込んで北海道の「警備」と「開拓」を行ったが、屯田兵とはまさに侵略の尖兵にほかならない。1899年、日本政府は「北海道旧土人保護法」を制定し、アイヌ民族の自由と権利を剥奪した。1997年のアイヌ文化保護法は「文化保護」に限られた。2007年の国連先住民族権利宣言採択後に、ようやく日本政府はアイヌ民族を先住民族と認め、アイヌ政策を検討中であるが、アイヌの先住民族の権利をまだ認めていない。
31 沖縄/琉球侵略
沖縄/琉球に対する侵略と植民地支配は、1879年の琉球処分以後、本格化した。それ以前から、15世紀に成立した琉球王国に対して、17世紀に薩摩藩が侵略して、事実上の植民地支配を布いていた。琉球処分以後、沖縄は定刻の版図に組み入れられ、ウチナンチュに対する皇民化政策が推し進められ、第二次大戦時には沖縄戦により沖縄人は日本軍に殺され、「集団死」を強いられるなど、筆舌に尽くし難い被害を被った。第二次大戦後、いわゆる「天皇メッセージ」により、沖縄は住民の意思とは関係なく、一方的に米軍統治下に委ねられた。1972年の「沖縄復帰」後も、在日米軍基地の多くが、民意に反して沖縄に押し付けられたままであり、安全保障の名の下に沖縄に対する日米の支配が続いている。2009~10年、米軍普天間基地問題の解決を唱えた鳩山由起夫内閣は、結局、米軍基地を沖縄に改めて押し付ける日米合意を取り結んだ。
32 台湾侵略
台湾に対する侵略と植民地支配は、1895年の清朝による「台湾割譲」以後、本格化した。台湾領有戦争では、現地住民による激しい抵抗運動を武力により徹底弾圧し、その後は「内地延長主義」が採用されたが、1930年の霧社事件の後は皇民化政策が採用された。1945年の中華民国成立により日本統治は終了したが、サンフランシスコ条約発効とともに日米安全保障条約が締結され、同時に日華平和条約が締結されたことで、日本は国共内戦に深く関わり、台湾に影響力を行使することになった。
33 朝鮮侵略
朝鮮半島に対する侵略と植民地支配は、1905年の乙巳保護条約(第二次日韓協約) および1910年の韓国併合条約(韓国併合ニ関スル条約)以後、本格化した。植民地化の根拠となった一連の条約には、外交文書としての成立過程、文書自体の性格・特徴から、その成立が疑われるものが多い。このため単なる植民地化ではなく、武力占領だったとの理解もある。朝鮮人民は、東学農民戦争から始まり、併合前後の義兵闘争、1919年の3.1独立運動、1930年代の抗日武装闘争など、日本による植民地支配に対する激しい抵抗運動を行ったが、日本軍はこれを武力弾圧し、植民地支配を維持した。統治方式は、時期により武断政治や文化政治などさまざまな特徴を有するとされるが、土地調査事業による国土の略奪、「国語(日本語)」常用、神社参拝、創氏改名などの皇民化政策、さらには第二次大戦期の強制連行・強制労働、日本軍性奴隷制(「従軍慰安婦」)、志願兵・学徒兵・徴用・徴兵などに本の総動員体制の中で、朝鮮人民を奴隷状態に置いて抑圧した。
34 サハリン・南洋侵略
日本は、1905年、サハリン(樺太)に上陸し、ポーツマス講和条約以後、樺太を植民地化した。続いて、1914年、第一次大戦に参戦し、当時ドイツ領であったミクロネシア一帯を占領し、「南洋群島」と呼び、1919年、国際連盟による委任統治領とした。1933年、日本は国際連盟から脱退し、徐々に委任統治領を日本領土に変質させていった。第二次大戦時、南洋群島は日米両軍の激戦の地とされ、現地住民は多大の被害を被った。ペリリュー島やアンガウル島は日米両軍による激戦地となり、島の形状まで大きく変化したといわれる。バナバ島やナウル島の住民は各地に強制移住させられた。日本軍による住民虐殺や略奪も報告されている。タラワ島やマキン島の激戦では日本軍が全滅したが、そこには多くの朝鮮人軍属が含まれていた。第二次大戦後、サハリンはソ連領となった。敗戦後、日本人は本土に引き上げたが、朝鮮半島から移住させられていた朝鮮人は置き去りにされた。他方、南洋群島は国際連合の下、アメリカの信託統治領となった。
35 中国侵略
中国東北部への侵略と植民地支配の結果、日本は、1932年、旧「満州国」を捏造した。中国侵略の本格化は、1928年の張作霖事件、1931年の「満州事変」により、続いて1937年の日中戦争(「支那事変」)でいっそうの激化をもたらし、その結果として、1941年の「太平洋戦争」に拡大したが、中国における戦争と占領、交戦と虐殺、略奪と搾取は天文学的数字に達した。
36 第二次大戦における侵略と占領
第二次大戦は、一般に真珠湾攻撃から始まったとされるが、実際には真珠湾攻撃よりもマレー半島のコタバル攻撃が先であった。日本軍は、フィリピン、ベトナム、マレー半島、シンガポール、タイ、ビルマ、インドネシア、東ティモールなどを占領した。占領行政のあり方は地域によって異なるが、現地住民への差別、神社参拝の強要、資源の略奪、強制労働、女性に対する性暴力など、さまざまな被害を与えた。日米両軍による戦闘が行なわれた地域では、戦闘に巻き込まれるなど現地の被害はさらに甚大であった。
37 侵略・占領による被害
日本帝国主義による占領下、植民地支配下における政策が、東アジア人民の自己決定権、文化、アイデンティティを破壊し、取り戻すことのできない被害と苦痛を与えたことを確認する。
B 脱植民地過程
38 継続する植民地主義
日本帝国主義による占領や植民地支配が終了して以後も、日本における植民地支配の清算の不十分さから、「継続する植民地主義」とも呼ばれる残滓が随所に見られることになった。
39 カイロ・ポツダム宣言
第二次大戦終了後、日本政府は、カイロ・ポツダム宣言による日本領土(本州、北海道、九州、四国およびその他の島嶼)以外の領有権を剥奪されたが、同時に日本在住の旧植民地・占領地出身者たちのあらゆる権利を剥奪した。
40 東京裁判とサンフランシスコ条約
第二次大戦後、極東国際軍事裁判において日本の戦争犯罪者が裁かれたが、裁判は欧米を中心とした西欧諸国によって担われ、アジアの被害地域が除外されたために、日本がアジア太平洋各地で行った戦争犯罪と人道に対する罪の多くが未解明に終わった。1951年の対日講和条約(サンフランシスコ条約)も「片面講和」と呼ばれたように、アメリカを中心とする西側諸国との講和によって日本を「国際社会」に復帰させることが優先された。このため、日本はアジア太平洋における侵略と植民地支配、戦争犯罪と人道に対する罪の責任を問われることを免れた。
41 日韓条約と日中共同声明
サンフランシスコ講和条約以外に、日本は、1965年の日韓条約、1972年の日中共同声明など、アジア各国との二国間協定によって戦後賠償を進めたが、戦後賠償が実際には日本資本主義の海外進出を先導する結果となり、また、個人被害者の手にはほとんど届けられることがなかったことが、東アジア地域における和解の未達成という帰結をもたらした。
42 日本の外国人管理政策
日本政府の外国人管理政策は、1947年の外国人登録令以後、本来差別的なものであり、人種・民族差別等の残存、再生産をもたらしてきた。このことが今日に至るまで、日本における人権意識の欠如、民主主義の不十分さを招いている。
C 東アジア地域社会の構成員(人民・先住民族・移住者・難民・マイノリティ)
43 東アジア地域人民の権利
東アジア人民が、文化と自己のアイデンティティへの権利、政治・社会、経済・文化生活における自由で平等な条件で参加する権利、自己の欲求と慣習の文脈で発展する権利、自己の組織形態・生活様式・文化・伝統・宗教様式を維持・持続・促進する権利、自己の言語を持続・使用する権利、自己の伝統的知識や文化遺産・芸術遺産の保護への権利、住居が自然に更新されて供給される使用・享受・保存への権利、特別に特徴的なものも含む教育制度・教育課程の設定・実施・発展に積極的に参加する権利、適用できる場合には先祖伝来の居住地への権利が認識されるべきである。
44 人種差別等の廃止に向けて
東アジアにおいて、人民が、公の制度でも私的にも、支配的な社会的偏見と差別の結果としての障害に直面していることを認め、この地域の人民が直面しているあらゆる形態の人種・民族差別等の廃止に向けての努力が必要である。
45 東アジア地域人民の貢献
数世紀にわたって人種差別等に直面してきたにもかかわらず、東アジア地域人民は、彼女ら/彼らが居住する諸国の経済・社会・政治・科学・文化生活に貢献してきたし、いまも貢献していることを確認する。
46 先住民族の被害
先住民族は、数世紀にわたって差別の被害者であった。東アジアにおける先住民族も、数世紀にわたって差別の被害者であった。先住民族が尊厳と権利において自由かつ平等であって、いかなる差別、とくに先住民族の出自とアイデンティティに基づく差別をされてはならない。先住民族に影響を与える人種差別等の継続を克服する行為の必要が続いている。
47 先住民族の貢献
東アジアにおける先住民族の文化と遺産の価値と多様性は、社会の発展と文化的多元主義、および社会のすべての局面での完全な参加への先住民族の格別の貢献、とくに先住民族の関心のある問題での貢献が、政治的社会的安定や、先住民族が居住している各国の発展にとって基本的である。
48 先住民族のイニシアティヴ
先住民族が人権と基本的自由を完全に実現することが人種差別等の廃止にとって絶対に必要であるという確信を強調する。先住民族が市民・政治・経済・社会・文化的権利を完全かつ平等に享受し、先住民族に特徴的な性質やイニシアティブを尊重されつつ、持続可能な発展のためになるよう促進するという決定をしっかりと確認する。
49 先住民族の権利
先住民族が自己のアイデンティティを自由に表明し、権利を行使するために、先住民族がすべての形態の差別から自由であり、当然のことながら人権と基本的自由の尊重が伴うことを強調する。先住民族の権利に関する宣言案の交渉において先住民族のために普遍的な認知が保証されるよう努力がなされている。先住民族の権利には以下のものが含まれる。自己の名前で呼ばれる権利、居住する自国の政治・経済・社会・文化的発展に自由かつ平等に参加する権利、自己の組織・生活様式・文化・伝統を持続する権利、自己の言語を持続・使用する権利、居住する地域において自己の経済構造を持続する権利、教育制度・教育プログラムの発展に役割を果たす権利、狩猟・漁業など自己の土地と資源を管理する権利、司法に平等にアクセスする権利。
50 先住民族の土地の権利
先住民族がその精神的、肉体的、文化的存在の基礎として土地との間にもっている特別の関係を認め、可能であれば、先住民族が国内法で保障されている自己の土地と資源の所有権を保有できるよう各国に促す。
51 移住者の貢献
移住者が、出身国でも受け入れ国でも、経済・社会・文化に積極的に貢献することを認める。
52 移住者の法的枠組み
移住についての日本の法的枠組みと政策が、適用可能な人権文書・規範・基準に合致するべきであり、人種差別等から自由であることを保証するよう立案されるべきであると再確認する。
53 移住者に対する人種差別等
移住者に対する人種差別等の現象と行為、および移住者に適用されるステレオタイプに懸念を留意し、強く非難する。裁判管轄権のもとで移住者の人権を保護する各国の責任を再確認する。移住者を不法行為や暴力行為、とくに人種差別と、個人や集団が人種主義や外国人排斥の動機で行った犯罪から保全・保護する政府の責任を再確認する。移住者が社会で、職場で、公正、正義、公平な取り扱いを受ける必要があることを強調する。
54 移住者への差別の克服
日本において、移住者に対する人種主義と外国人排斥の現象を廃止するために、移住者とその他の社会構成員との間の調和、寛容、尊重を増大させるのに役立つ条件をつくる意義を強調する。家族がともに暮らすことが統合に積極的な影響を与えることを強調し、各国に家族の再統合を促進するよう強調する。
55 難民・難民申請者
人種差別等、人びとを難民や難民申請者として自分の出身国から強制排除したり、移動せざるをえなくさせることに関心をもって留意する。
56 難民等への差別
人種差別等との闘いの努力にもかかわらず、とりわけ、難民や難民申請者、国内避難民に対する人種差別等のさまざまの形態の事例が継続していることも懸念をもって認める。
57 歴史を記憶すること
人類史が重大人権侵害の結果としての多くの残虐行為に満ちていることを自覚し、歴史を記憶することによって将来の悲劇を防ぐことを教訓として学ぶことができると信じる。近現代日本史が重大人権侵害の結果として多くの残虐行為に満ちていることを自覚し、歴史を記憶することによって招来の悲劇を防ぐことを教訓として学ぶことができる。
58 悲劇を忘れない
近現代日本史におけるジェノサイドや人道に対する罪の悲劇は、決して忘れてはならない。
59 マイノリティの保護
民族的・言語的・宗教的マイノリティは、強制移住、ジェノサイドおよび同化政策による文化ジェノサイドから保護され、集団的アイデンティティを維持・発展させる権利を有し、地域的・全国的決定過程に効果的に参加する権利を有すること、国家はその条件整備のために積極的措置を講じる義務を負う。
60 マイノリティの権利
民族的・言語的・宗教的マイノリティないし先住民族に属する者は、子どもも含め、個人として、また帰属集団・共同体の他の構成員とともに、自己の文化を享受し、自己の宗教を宣明・実践し、自己の言語を使用する権利を有することを認める。国家は、それらのマイノリティおよび先住民族に、マジョリティと平等にいかなる差別もなく、人権と基本的自由を保障するべきである。
61 ジェンダー視点
人種差別等が、女性と少女にとって、男性に対するのとは異なる形態で行われ、教育、雇用、健康など、生活の多くの領域において不均衡に否定的影響を及ぼし、搾取的労働や暴力など、人権の制限や否定を導く要因となりうることを認識する。そうした複合的な差別に対処するために、人種差別等に反対する政策、戦略、行動計画にジェンダーの視点を必ず導入すべきである。
62 女性に対する人種差別等
女性に対する人種差別等のために、女性が市民的・政治的・経済的・社会的・文化的権利を完全に享受し、行使する上で直面している不利益・障害・困難の実態を調査し、当事者の意見を政策に取り入れるためのよりシステマティックで一貫した方法を発展させる必要がある。
63 子どもと若者
人種差別等の被害者に、子どもと若者、とくに少女の数が多いことに関心をもって留意し、子どもの最善の利益と子どもの意見の尊重の原則に従って、これらの慣行の被害者である子どもと若者の権利と状況に優先的な関心を払うため、人種差別等と闘う計画に特別な措置を盛り込む必要がある。
64 子ども労働
子ども労働が貧困、発展の欠如、関連のある社会経済条件に結びついているので、ある場合には、影響を受ける集団の子どもに、生産生活において必要とされる能力を身につけ、経済成長から利益を得る機会を不釣り合いなほどに否定することによって、貧困と人種差別を永続化してしまうことを認める。
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Ⅳ 韓国併合100年における植民地主義と差別(第一次案) ――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史
http://easiahhpa.exblog.jp/14013044/
2009-06-12T15:32:00+09:00
2010-06-21T08:43:55+09:00
2010-06-20T15:34:23+09:00
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未分類
――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史 其の一
1 2010年は韓国併合100年に当たり、韓国併合による植民地支配の反省を訴える日本の市民によるさまざまなアピール、集会、学習会の取組みがなされていることを歓迎する。しかし、同時に、日本政府による朝鮮人差別や、日本社会における心ない差別と排外主義が噴出していることを指摘せざるをえない。
2 2010年4月、日本政府は高校無償化を導入したが、朝鮮学校への適用を見送り、朝鮮学校の教育課程を確認するという名目で第三者委員会なるものを設置したという。背景には、2010年2月の大臣発言に始まった政治問題化があり、政治問題を教育現場に持ち込む差別的処遇がなされている。2010年2月24日、人種差別撤廃委員会において差別への懸念が語られた。3月11日、同委員会は、同様に朝鮮学校排除と政治問題化を差別的な影響をもたらすものと指摘した。さらに2010年5月28日、子どもの権利委員会においても同様の指摘がなされた。それにもかかわらず、日本政府は差別政策を取り続けている。
3 朝鮮学校に対する差別政策は、一貫して長期的に採用されてきた。朝鮮高級学校卒業生の大学受験資格問題では、文部科学省がしつように朝鮮学校排除を推進してきた。多くの私立大学においては、「高等学校に準じる」規定の適用によって受験を認めてきたのに対して、文部科学省はこれを否定し、とりわけ国立大学には受験させないように規制してきた。今日では国立大学も朝鮮学校卒業生の受験資格を実質的に認めているが、必ずしも文部科学省の差別政策が変化したわけではない。
4 人種差別撤廃委員会の日本政府に対する勧告でも言及されているように、助成金や免税措置についても、朝鮮学校に対する差別が続いている。中央政府による助成金は終始一貫して皆無である。一部の地方自治体による助成金があるが、金額は僅かである。朝鮮学校への寄付金についての控除(免税措置)が認められていない。アメリカン・スクールなど外国人学校にも認められているのに、朝鮮学校だけを排除している。
5 日本政府による差別は、1948年の阪神教育闘争、1965年の文部省通達、1968年以後の外国人学校法案問題、1995年に解決したJR通学定期券差別、看護士資格差別など、現象形態は時期によりさまざまに変化してきたが、一貫して続いている。近年の重要な変化は、かつては朝鮮学校を含む外国人学校と日本学校との間の差別であったが、最近では、朝鮮学校とその他の外国人学校の間にも差別を設けて、朝鮮学校だけを徹底的に差別する方針が貫かれていることである。
6 日本政府による朝鮮人差別の根幹には、在留資格問題と出入国管理問題があった。ここでも近年、変化が見られる。それは、差別政策の動因がもっぱら朝鮮人差別と管理であった時代と異なり、最近では新たな移住者に対する差別と管理が前面に出てきていることである。永住者とそれ以外の外国人との間の差別がたくみに設けられている。2009年の新在留管理制度関連法も、外国人の管理と選別を目的としている。
7 国民年金差別も日本政府によって一貫して採用されている。かつては朝鮮人全体を年金制度から排除していた。1982年改正により、朝鮮人も年金制度の適用を受けるようになったが、必要な経過措置が採られなかったことにより、朝鮮人高齢者と障害者について差別が産み出されることになった。もっとも必要な人に対する年金が消されてしまった。2001年8月の「経済的社会的文化的権利に関する国際規約」に基づく社会権規約委員会による是正勧告、2008年10月の「市民的政治的権利に関する国際規約」に基づく自由権規約委員会による是正勧告にもかかわらず、日本政府は差別政策を改めようとしない。
8 東京都による日比谷公会堂使用拒否に見られるように、朝鮮人の公的施設使用に対する拒否が行われている。同時に民間施設においても、朝鮮人に対する使用拒否、使用許可の取り消しが行われることがある。東京都による使用拒否は、裁判所による救済があったので、日本政府が差別を行ったわけではないが、日本政府によるさまざまな差別に便乗・同調して、地方政府が朝鮮人差別を露骨に行った事例である。それが民間施設に対しても負の影響を及ぼしている。金剛山歌劇団の文化公演に対する妨害も行われている。
9 日本社会における差別も枚挙に暇がないが、今日、注目しなければならないのは、新たな排外主義と差別の煽動の顕在化である。社会の底流に存在してきたさまざまな陰湿な差別とは別に、朝鮮人組織、朝鮮学校などに押しかけて暴力行為や差別発言を繰り返す、ヘイト・クライム(憎悪犯罪)がはびこっている。中国人やその他のアジア系外国人に対しても暴力、恫喝、嫌がらせが続いている。
10 2009年12月4日、在特会(在日特権を許さない市民の会)と称するヘイト・クライム集団が、京都朝鮮第一初級学校に押しかけ、同校がグランドとして使用していた公園で騒ぎ、器物損壊、差別、名誉毀損、侮辱の言説を撒き散らし、強要、恫喝を繰り返した。日本の市民による在特会に対する抗議行動も広範に取り組まれているが、警察は在特会を取り締まることなく、その後も犯罪的行為が継続している。2010年2月14日および3月28日にも、在特会などは京都朝鮮第一初級学校に向けての排外主義のデモ行進を行った。
11 2009年11月、在特会は、東京都小平市の朝鮮大学校にも押しかけ、同校正門前で朝鮮人差別の煽動行動を繰り返した。同様に、在特会は、東京、福岡など各地にある在日本大韓民国民団本部や支部に押しかけ、誹謗中傷を繰り返してきた。名古屋市立博物館における歴史展示を妨害し、京都府のウトロ地区や大阪市の生野地区など朝鮮人集住地域において排外主義デモを行い、民族差別の言辞を撒き散らしてきた。在特会は、埼玉県蕨市においてフィリピン人家族に対する排外主義デモを行ったのを手始めに、東京秋葉原でも排外主義デモを行い、東京池袋における中国人商店に対しても営業妨害行為を行うなど、朝鮮人、中国人、その他の外国人に対する差別行為を続けている。
12 在特会に代表される排外主義と差別の隆盛については、日本経済の落ち込みと不況による失業や労働の不安定化、不安定雇用の底辺に置かれた若者の不安とストレス、経済大国から脱落しつつある日本の現状への不安とこれに呼応したナショナリズムなど、さまざまな要因が指摘されている。同時に、1990年代に本格化した、日本軍性奴隷制問題を典型とする戦後補償要求運動(日本による侵略戦争や植民地支配に関連する被害者個人への補償要求運動)への政治的反動、感情的反発に由来する歴史の歪曲、歴史教科書問題などに関連するイデオロギー的逆流現象があったことも忘れてはならない。
13 1990年代における「従軍慰安婦論争」「南京大虐殺論争」「歴史教科書論争」は、日本の侵略戦争や植民地支配の責任を逃れ、そのために侵略戦争や植民地支配を美化し、事実を歪曲・隠蔽し、被害者を侮辱し中傷する政治傾向を生み出した。テレビ・映画・音楽などの文化的分野における「韓流」ブームにもかかわらず、政治的には「嫌韓流」が意図的に作り出され、日本の歴史と伝統の誇りを呼号する「愛国心」が叫ばれるようになった。
14 その結果として、「愛国心」に反すると見做されたすべての人々や出来事を「反日」と断罪し、激しい攻撃が加えられるようになった。朝鮮人、中国人、アジアやラテン・アメリカからの移住者、難民認定申請者に対する排外主義と差別は、在日朝鮮人の人権、戦後補償運動、移住者の権利、難民認定申請者への支援運動を行っている日本人に対しても、激しい敵意をむき出しにした攻撃を続けている。東京都三鷹市における「慰安婦」展、兵庫県宝塚市や西宮市における「従軍慰安婦」問題の解決を求めるアピール行動に対する妨害行為がその代表である。こうした差別と排外主義に反対して立ち上がった市民に対しても、2009年12月19日、東京都飯田橋で開催された集会や、2010年3月28日、京都市河原町で行われたデモ行進などに対して、在特会は実力行使による妨害行為を続け散る。
15 他方、不動産業者および地主による、朝鮮人を始めとする外国人に対する賃貸ビル・アパート・マンション入居差別が、長期にわたって報告されてきた。社会的差別も、時期によりさまざまな現象形態となって現れる。高等学校体育連盟によるスポーツ大会への朝鮮学校参加、JRによる朝鮮学校生徒の通学定期券除外問題などは1990年代に解決したが、クレジット・カード入会、ゴルフ場会員権などにも差別が発覚することがある。銭湯における入浴禁止、公共プールにおける利用禁止、一般商店における入店禁止など、各地で異質な他者に対する敬遠・偏見に由来する行為が報告されている。
16 現在の日本国家による差別と日本社会における差別は、それぞれ無関係の別個のものではなく、相互に支えあって構造的差別を形成している。国家による差別が、社会における差別と不寛容に根拠を与えている。政府が公然と差別をしている社会では、一般の人々にも差別が許されているというメッセージが常に発せられている。政府の言明とマスメディアの伝達により、差別がいっそう強化されている。社会におけるさまざまな差別現象は、政府が日本国憲法と国際人権諸条約に基づいて適切に対処しなければならないが、日本政府は、それどころか社会的差別を温存することにより、政府の怠慢を弁解している。社会的差別が国家による差別の正当化、無視、隠蔽を支えている。
17 現在の日本国家による差別と日本社会における差別の原因と形態は、本宣言 でも触れたことであるが、差別の現代日本的形態を的確に理解し、被害者の状況を把握するためには、近現代日本史の総体的分析を必要とする。
18 東アジアにおける人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容の被害者を明らかにするという、本宣言に必要な限りで考察する場合にも、近代日本による植民地主義の歴史が中軸にすえられる必要がある。近代日本における植民地主義は、少なくとも、第1に、台湾や朝鮮半島に対する侵略戦争(植民地化戦争)、第2に、植民地化した地域における植民地政策、そして最後に脱植民地過程(とりわけ植民地責任の未清算)の3つの局面にわたって検討される必要がある。
19 本宣言において用いられている「朝鮮人」という言葉そのものが、このような日本の植民地主義の変遷過程によってさまざまに刻印され、多義的で、かつ論争的な言葉となってきたことを指摘しておかなければならない。在日朝鮮人、在日韓国人、在日朝鮮・韓国人、在日コリアンなどさまざまな呼称が用いられ、時に激しい論争を必要とすることになったこの言葉は、日本による植民地化戦争、植民地政策そして脱植民地過程を通じて、変容してきた歴史的諸関係を反映している。本宣言では、「在日朝鮮人」を、朝鮮半島出身者およびその子孫を指す言葉として用いるが、これらの言葉をめぐる定義問題に立ち入らない。
20 日本による朝鮮植民地化は、豊臣秀吉による朝鮮侵略戦争や、江戸時代におけるさまざまな朝鮮侵略思想といった底流を持つが、近代における植民地化は、屯田兵によるアイヌモシリ(蝦夷=北海道)日本編入、小笠原諸島の日本編入、琉球処分に始まる沖縄県設置と続いた「国内植民地」の時期を経て、台湾および朝鮮半島に触手を伸ばす対外的進出として具体化した。「日清戦争」が終結した後、大日本帝国は、1895年10月、ロシアの影響排除を目的として朝鮮政府の権力構造に実力で介入し、朝鮮王宮に進攻し朝鮮政府軍、官僚、女官、王后を虐殺した。現場首謀者はソウルにおける外交の最高責任者、領事・三浦梧桜以下であり、日本軍と連携をとり景福宮に侵入した。これらの行為に対して日本政府による真相究明はいまだ取組まれていない。
21 乙未事変(ウルミサピョン)と朝鮮政府内での前年からの甲午改革(カポケピョク)による近代的改革の推進に対し、朝鮮民衆は義兵闘争を起こした。
22 1904年、ロシアと日本の緊張が高まり、「日露戦争」を開始し、1897年に国号を変えていた大韓帝国に対して、軍事力を背景に「議定書」、「日韓協約」を強制締結させた。1905年、日露戦争の収束後、日本は一方的な「乙巳保護条約」と言われる「保護条約」を「特派大使」として乗り込んだ伊藤博文が大韓帝国皇帝・高宗(コジョン)を威嚇し、武力示威を後ろ盾に調印を強要した。これらの強制的な「保護条約」により、日本による強制占領が開始された。これに対して、1907年、高宗はオランダ・ハーグで開催された第二回万国平和会議に秘かに特使を派遣し、乙巳条約の不法と強要、侵略を世界に広く知らせようとした。しかし、日本は天皇陸仁の名のもと高宗皇帝を息子に強制譲位させ、軍隊を解散させ、内政権を掌握する協約締結を強要し占領政策を強化した。朝鮮民衆は義兵の決起を続け、軍人の抗日闘争が起きソウル市内で日本軍と市街戦になり、軍人は義兵部隊に合流した。義兵戦争が拡大し、抗日戦争となった。義兵の戦死者2万人、民衆へのジェノサイド数万人ともいわれる日本軍の暴力支配の究明が求められる。「日清戦争」「日露戦争」とは、日本側の呼び名にもかかわらず、朝鮮植民地化のための侵略戦争であった。
23 1909年10月26日、安重根(アン・ジュングン)はハルビン駅構内で伊藤博文・朝鮮統監府前統監を射殺した。日本外務省管轄下にある関東都督府地方法院における審理で、安重根は、侵略者・伊藤博文の罪を予審訊問や法廷で述べ「国土と民衆」を蹂躙したこと、韓国と東洋の平和が侵害されている現実とその責任を挙げ「東洋平和論」を述べた。しかし、1910年3月26日、殺人の罪で処刑された。同じ1910年、日本では天皇殺害計画があったとして社会主義者たちを壊滅させる大弾圧として大逆事件が「発覚」した。幸徳秋水ら12人が処刑された大逆事件の弾圧と、韓国強制併合は同時進行であった。
24 1910年8月22日、日本はソウルにおいて、日本軍の圧力の下に、大韓帝国に併合条約を強制締結させた。
25 日本による朝鮮総督府は三権を掌握し、憲兵・警察を駆使した暴力支配で日本への同化主義を採用し、朝鮮人による新聞・雑誌発行を認めず、宗教以外の自主的社会活動を認めず、占領、植民地支配を徹底した。これに対して、朝鮮人民は、抗日独立運動の闘いを継続した。
26 日本は、国策会社であり天皇・皇族が大株主の東洋拓殖会社に、政府補助金により土地の買収を進めさせた。1910~18年の「土地調査事業」で日本が接収した土地のうち1万1400町歩が、東洋拓殖会社に現物出資され、植民地経営の一翼として朝鮮人小作農に貸し付け、最大の地主として植民地支配を支えることになった。農民は過酷な条件により生活を圧迫され、離農を余儀なくされ、移住労働者にならざるを得なかった。
27 1919年のパリ講和会議で、「民族自決」「植民地問題の公正解決」が国際的な議論となった。日本に留学していた朝鮮学生は、この国際情勢を独立の機会と考え、「朝鮮青年独立団」を組織し、独立宣言書と決議文を発表した。民族の生存権を主張した「2・8独立宣言」である。かくして「3・1」独立運動が決起した。パコダ公園に学生・市民が集まり独立宣言書を朗読し、太極旗をもち、「独立万歳」を叫んで市内で示威運動を展開し た。宣言書は「吾等はここに朝鮮が独立国であること、朝鮮人が自主の民であることを宣言する」に始まり、「侵略主義、強権主義の犠牲となって10年の間に生存権が奪われたこと。子孫に安全な幸福を導き迎えるには民族的独立を確実にする」と記された。
28 朝鮮全土で200万人余りの民衆参加があり、中国東北地方にも広がった反日独立闘争に対し、日本の警察と軍隊は、銃剣で厳しい弾圧を加え、京畿道水原の堤岩里虐殺を含め7000人を肥える民衆虐殺、5万人近くの逮捕者というというジェノサイドを行なった。独立闘争はおさえられたが、3・1運動はアジア各地の民衆に多大の影響を与え、近代史上最大の反日独立闘争であった。
29 このため、斉藤実・朝鮮総督は、暴力支配を根幹とする治安維持政策とともに、朝鮮民衆への懐柔と分断政策を進めた。この時期、民衆は新たな抵抗運動を組織し、集会・結社・言論活動を広げ、労働運動、農民運動、衡平運動を闘い始めた。同時期の日本本国の民衆による1918年の女性たちの決起を契機とした米騒動、1919年の労働運動の勃興、1920年の朝鮮民衆も参加した「日本社会主義同盟」の結成と、天皇制国家権力に対する闘いにおいて、朝鮮民衆と日本民衆の相互影響、共同闘争の萌芽を見ることができる。
30 その後、朝鮮独立運動は中国に展開し、臨時政府として上海に統合された。中国東北部の間島地方での武力闘争も続けられた。日本軍は、1920年8月、「間島地方不逞鮮人焦土計画」を立てたが、同年10月、金佐鎮部隊が青山里において日本軍に壊滅的打撃を与えた。その報復として、日本軍は、1921年4月まで間島地方の朝鮮人村落においてジェノサイドを敢行し、当初の2ヵ月間だけで殺害3600余名、婦女強姦70、家屋放火3200軒との報告に見られる暴虐を行った。
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別其の二
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別其の三
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Ⅳ 韓国併合100年における植民地主義と差別(第一次案) ――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史
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――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史 其の二
31 1923年1月、独立活動家・申采浩(シン・チェホ)起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」は、独立闘争の理念と具体的行動を宣言した。それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが、民衆における階級問題や親日派への批判を明確にし、3・1独立宣言の限界を越える内容としていた。
32 1923年9月1日、日本の「帝都」東京周辺において関東大震災が起きた。政府、軍隊は、震災発生直後に戒厳令を施行するとともに、在留朝鮮人を脅威とするデマゴギーを流布した。震災直後から、軍隊や警察による朝鮮人虐殺が始まり、官憲の命令や教唆によりつくられた民衆による自警団の手による虐殺も含め、少なくとも6000人余りが虐殺され、「関東大震災朝鮮人ジェノサイド」となった。
33 1930年代以降も、中国東北部でのコミューンを拠点にした独立闘争、民族主義の立場での抗日戦争、中国や台湾、日本国内における闘争は続いた。一方、日本の「大東亜共栄圏」の版図は、抗日戦争、独立闘争を担う朝鮮の人々にとって戦場であり 義烈団や民族主義団体、社会主義グループによる抗日武装闘争、さらには数知れぬ名もなき民衆による非協力・不服従の抵抗が、取組まれた。
34 大日本帝国の民衆弾圧は、本土・国内においては治安維持法=特高警察体制、大逆罪弾圧として現象し、朝鮮植民地支配における軍事暴力と対をなしていた。台湾や朝鮮を侵略し、植民地支配、占領した日本は、本国刑法を支配地において準用し、民衆の動きを徹底弾圧した。これに対して、独立活動家の一部は大日本帝国の中枢、天皇を攻撃目標とした。
35 朝鮮の労働者は、不当な違約金徴収、日本人との賃金格差も極端化し、賃金労働者の生活は困窮した。1921年、釜山の埠頭労働者争議を皮切りに争議が増加した。なかでも1929年の元山ストライキは最大の争議となった。しかし、警察や日本軍400名の動員により弾圧された。朝鮮人労働者を主体とする労働運動、組合結成、争議は日本国内でも取組まれ、朝鮮では光州学生闘争、新幹会の結成など民衆闘争も持続された。
36 日中戦争の激化からアジア・太平洋戦争への進展に伴い、1938年には、大政翼賛組織の国民総力朝鮮連盟が結成され、中央本部は朝鮮総督府に置かれ、朝鮮人労働者、軍人、軍属の「皇国臣民」化を進めた。中国侵略完遂のため、朝鮮民衆を大日本帝国に組み込むため、創氏改名、「東方遥拝」、「君が代」斉唱、「日の丸」掲揚、「御真影」と称する天皇の肖像への礼を強要した。朝鮮での徴兵実施に向け、1941年、朝鮮総督府は朝鮮語の学習を廃止し、「国語」として日本語使用を強制した。戦時体制強化のため「陸軍特別志願兵令」を公布し、徴用令その他様々な手段を通じて強制連行・強制労働を行った。最悪の軍事的性暴力であった日本軍性奴隷制(従軍慰安婦)も朝鮮女性を最初の犠牲者とした。
37 日本による朝鮮侵略(植民地化戦争)と植民地支配のもとにおける被害は、計量不能である。この間の人的被害については、虐殺や逮捕の数を推定することはできる。強制連行・強制労働や性奴隷制被害者の数も推定することはできる。しかし、被害は、虐殺や強制連行だけではない。政治的弾圧、経済的搾取、文化破壊、これらを通じた家族崩壊、人格への打撃は、およそ計量化することができない。朝鮮民族全体に対する甚大なジェノサイドの被害は、数値化不能である。物的損害も同様である。土地調査事業、地下資源の収奪はもとより、あらゆる可能性が収奪、略奪、破壊、消尽された。
38 日本による朝鮮植民地支配に異論を唱えた民衆は、僅かであるが、実在した。石川啄木、金子文子、布施辰治、槇村浩・・・などの名前を歴史に刻むことも忘れてはならない。それは朝鮮に肩入れした日本人がいたことを誇るためではない。朝鮮を始めとするアジア民衆と真に連帯し、友好を築き上げる日本人の責任を喚起するためである。
39 今日も続く在日朝鮮人に対する差別は、以上の植民地主義の帰結であり、日本の脱植民地過程が植民地支配を清算することなく、あいまいにされた結果でもある。第二次大戦敗北後、日本は連合国による占領下に置かれ、人権指令による戦後民主化、日本国憲法の制定、極東国際軍事裁判所(東京裁判)による一部の戦犯裁判を経た。しかし、大日本帝国の侵略戦争と植民地主義の最大の責任者であった天皇の責任が問われることなく、天皇は象徴天皇に移行した。極東国際軍事裁判所に朝鮮人民の代表者は招待されず、日本による朝鮮人民に対する犯罪が裁かれることもなかった。アジア各地におけるいわゆるBC級裁判においては、日本国家の犯罪の責任が朝鮮人に押し付けられた。連合国は朝鮮人民を、一方では解放された人民としながら、他方では監視と抑圧の対象とした。その結果、日本は朝鮮植民地支配の責任を問われることなく、領土の喪失という形での脱植民地過程を経ただけであった。
40 日本民衆の間でも、第二次大戦末期における連合国による空襲、ヒロシマ・ナガサキの被曝、および、樺太、旧「満州」、朝鮮半島など植民地からの引揚者の苦労話など、日本人の「被害」のみが語られることになった。日本が侵略したそれぞれの地の人民の苦難は省みられることがなかった。強制連行され、アジア各地に放置された朝鮮人のことも、日本人は速やかに忘れた。
41 第二次大戦後、日本政府は迅速に在日朝鮮人差別政策を推進した。最初に行ったのが、大日本帝国最後の勅令(ポツダム勅令)である1947年5月2日の外国人登録令であり、「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」として、それまで日本国籍を押し付けられて日本人とされてきた朝鮮人を一方的に外国人とした。朝鮮半島が政治的混乱状態にあったこともあり、当時60万人を超えたといわれる在日朝鮮人が、その意思を問われることも選択権を認められることもなく、一夜にして無国籍者とされるという、世界史上まれに見る暴挙であった。
42 1947年10月、連合国最高司令官の指令によって、在日朝鮮人が日本の教育基本法、学校教育法のもとに置かれることになった。1948年1月24日、文部省学校局長は通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」を出し、在日本朝鮮人連盟などが朝鮮民族の教育を行うために各地につくった国語講習会を閉鎖し、朝鮮人を日本学校に組み入れることにした(「朝鮮学校閉鎖令」)。これに対して、大阪府、兵庫県を中心に、朝鮮人は民族教育を守る闘争を展開した。1948年4月の阪神教育闘争とは、朝鮮民族が民族教育を求めて立ち上がり、これに日本人も協力して、大衆闘争として展開された。しかし、アメリカ軍憲兵や日本の武装警官隊により暴力的に弾圧され、朝鮮人1名が殺害され、数多くの負傷者と逮捕者を出して収束した。公安資料によると検挙者は7295名であった。同年5月5日、文部省は朝鮮学校を私立学校として認可すると認めた。
43 在日朝鮮人に対する差別は、朝鮮半島の政治的分断、とりわけ朝鮮戦争という複雑な要因により、いっそう特殊な形態を与えられた。第二次大戦終戦の歴史的経過の中で、38度線(軍事境界線)による分断が始まった。1948年8月15日、朝鮮半島南部に大韓民国が樹立されると、同年9月9日、北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立した。1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、南北、およびアメリカ、中国による激烈な現代戦が戦われた。1953年7月27日に休戦協定が締結されたが、今日に至るまで和平が実現されていない。朝鮮半島の分断、とりわけ朝鮮戦争が、日本にとってもった意味は、まず何よりも植民地支配の清算を一切行わずに済んだことである。ドイツと異なって、敗戦国の日本は分断されることなく(ただし、沖縄等の問題は別に残る)、朝鮮半島が分断されることになった。さらに、日本は朝鮮戦争による特需によって経済復興を果たすという僥倖に恵まれた。しかも、日本列島は朝鮮戦争に出撃するアメリカ軍の軍事拠点となり、その後のアジアに対する軍事侵略の拠点につながった。日本政府は、朝鮮半島分断を奇禍として政治利用し、アメリカの意向に従って大韓民国に肩入れした。同時に、在日朝鮮人に対する分断が始まった。
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別其の一
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Ⅳ 韓国併合100年における植民地主義と差別(第一次案) ――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史
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――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史 其の三
44 1947年の外国人登録令を受けた、1952年4月28日の外国人登録法は、「外国人の登録を実施することによつて外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もつて在留外国人の公正な管理に資することを目的とする」としたが、当時の在留外国人のほとんどが朝鮮人と中国人であり、これは朝鮮人を管理・弾圧するための法律であった。在留外国人の在留資格を不安定なものとし、日本に居住・生活する人間としての権利さえ認めない政策がとられた。
45 1965年6月22日、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓条約、日韓基本条約)」が締結された。これにより、日本による韓国併合のために大韓帝国との間で結ばれた諸条約が「もはや無効」(日本側)とされ、日本政府は大韓民国を朝鮮半島唯一の合法政府であると確認し、日本が韓国に経済援助を行うことで国交正常化を行った。韓国民衆も、日本民衆も、日韓条約反対運動を激しく繰り広げた。問題は数多いが、特に、第1に、朝鮮植民地化および植民地支配の歴史的検証がなされることなく、併合条約の評価も日韓双方に相違を残したままの条約であった。第2に、分断状態にあった朝鮮半島の一方の政府を唯一の合法政府とすることによって、分断を固定化させる役割を果たした。第3に、植民地支配の下での被害者個人への補償・救済が不十分に終わった。第4に、分断が在日朝鮮人社会に持ち込まれることが予想されたことなどである。
46 阪神教育闘争以後、在日朝鮮人は全国各地に朝鮮学校を設立して、自らの手で民族教育の権利を実現した。これに対して、日本政府は、植民地支配責任を一切取ることなく、それゆえ朝鮮学校に当然なすべき援助を一切行わなかった。それどころか、日本政府は朝鮮学校を管理・抑圧し続けた。1965年に文部省次官通達により、朝鮮学校差別政策を推進し続けた。さらに、1968年3月に外国人学校法案が国会上程され、朝鮮学校に対する差別と抑圧を目的としたが、朝鮮人のみならず在留外国人および日本人も加わっての大衆闘争によって、法案は何度も阻止され、1972年に外国人学校法案は廃案となった。他方、東京都小平市に朝鮮人が建設した朝鮮大学校の認可も政治闘争課題となったが、1968年、東京都はこれを認可した。
47 日本における「歴史教科書」問題は、非常に歪んだ政治問題として知られている。日本によるアジア諸国への「侵略」を「進出」と変更させた文部省検定以来、事あるごとに内外の政治問題となってきた。1990年代以後は、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」「沖縄集団死」などの記述をめぐって歴史修正主義とこれに抗する市民の対立が激化してきた。個別の論点だけでなく、歴史教科書における朝鮮半島に関する記述の全体が、日本を中心に、他者=朝鮮人を見下す視線で描かれているとの指摘もなされてきた。他方、国連人権理事会のドゥドゥ・ディエン「人種差別問題特別報告者」や、2010年3月11日の人種差別撤廃委員会は、日本政府に対して、在日朝鮮人などの少数者が、日本社会において貢献してきた歴史的事実を記述するよう勧告した。
48 朝鮮学校に対して、日本政府は一切の援助を行っていない。地方自治体による助成金があるが、非常に僅少である。朝鮮学校に対する寄付金についても控除が認められていない。この点は、日本学校との差別だけではなく、外国人学校の中でも朝鮮学校に対してだけわざわざ差別が導入されている。JR各社(旧日本国有鉄道)は、文部省の要請のため、朝鮮学校生徒について通学定期券の発行を認めなかったが、広範な民衆の運動によって、1995年に通学定期券発行を認めた。朝鮮高級学校卒業生の国立大学受験資格差別も、1995年8月の国連人権委員会差別防止少数者保護小委員会(小委員会)にNGOから報告があったのを皮切りに、国連人権委員会や小委員会で繰り返し報告されるなど、内外の批判にさらされ、2003年8月11日の文部省による「弾力化」方針により、不十分ながら一応の解決を見た。2010年の高校無償化からの朝鮮学校除外問題に至るまで、つねに意図的に露骨な差別政策がとられてきた。
49 就職差別
50 1965年の日韓条約から25年後の1991年に、在日朝鮮人の在留資格を見直すこととされていたため、「1991年問題」を迎え、日本政府は、とりわけ人権侵害と批判に強かった指紋押捺の強制および外国人登録証常時携帯義務については一定の改正を施した。
51 1980年代後半から、日本による戦争と植民地支配による被害者たちの権利要求運動が始まった。1990年代には、戦後補償運動と呼ばれるようなさまざまな運動が広がり、日本政府に対して被害者への謝罪や補償の要求が突きつけられることになった。半世紀遅れの「正義の回復」要求であった。被害者は、強制連行・強制労働、軍人軍属、日本軍性奴隷制(従軍慰安婦)、七三一部隊・細菌戦、南京大虐殺、重慶爆撃、捕虜虐待・強制労働など実に多様な問題の被害者たちであった。終戦から半世紀を経て、高齢と病気に苦しむ被害者たちが人間の尊厳を求めて立ち上がった運動は、世界に大きな影響を与えた。1990年代における旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷(ICTY)、ルワンダ国際刑事法廷(ICTR)、そして1998年7月に採択された国際刑事裁判所規程に基づいて2002年に設立された国際刑事裁判所(ICC)、さらには東ティモール、シエラレオネ、コソヴォ、カンボジアに関して設置された「国際化された法廷(混合法廷)」など、国際刑事司法は、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイドなどを重大な国際犯罪とした。世界各地における重大人権侵害の「不処罰の連鎖」を断ち切るための運動の先頭に、日本による戦争と植民地支配の被害者たちがいた。
52 重大人権侵害の犯行者を裁き、被害者に対する謝罪と補償を実現し、再発防止を求める世界的運動のなかでも、1990年代に飛躍的な発展が見られたのが、女性に対する暴力、とりわけ戦時性暴力問題である。ここでもアジア各地の日本軍性奴隷制被害女性の闘いが重要な役割を果たした。1993年12月10日、国連総会は「女性に対する暴力撤廃宣言」を採択した。1996年4月、国連人権委員会は、ラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」による「日本軍性奴隷制問題報告書」を採択した。1998年8月、人権委員会差別防止少数者保護小委員会は、ゲイ・マクドゥーガル「戦時性暴力問題特別報告者」の報告書を採択した。これらの特別報告者は、日本軍性奴隷制に関する日本政府の法的責任を認定し、被害者への謝罪と補償を日本政府に対して勧告した。これらの勧告を実現する闘いの先頭を切ったのが、韓国、朝鮮、台湾、中国、フィリピンの被害女性(サバイバー)たちであった。2000年12月には、「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が東京で開催され、1990年代から続いた戦後補償運動のピークとなったが、ここには約70名もの被害女性(サバイバー)が集まった。
53 日本社会における朝鮮人差別の被害者や現象形態も時代とともに変化してきたが、「チマ・チョゴリ事件」は、日本社会の特質を如実に示すものとして、国連人権委員会、人権小委員会などに報告されるとともに、世界のメディアにも取り上げられた。1989年、日本国会において「パチンコ疑惑」騒動が起きると、朝鮮学校に通う女子生徒に対する差別・暴言・暴力事件が各地で頻発した。1994年、「北朝鮮核疑惑」問題に伴って、同様に各地でチマ・チョゴリを斬る事件が頻発した。この頃から「チマ・チョゴリ事件」と呼ばれるようになった。1998年の「テポドン騒動」、2002年の「拉致問題」、2006年以後の「人工衛星・ミサイル」発射や「核実験」問題に際しても、朝鮮学校に対する脅迫電話、無言電話が続き、女子生徒に対する暴言・暴力事件が相次いだ。これは社会における差別と犯罪であるが、犯行者が男女年齢を問わなくなってきたと指摘されている。被害者は朝鮮高級学校生徒のみならず、朝鮮初級学校(小学校)の年少生徒にも及んでいる。加えて、犯行が路上、電車の駅構内など公開の場で行われているにもかかわらず、犯行者がほとんど逮捕されないことも、人種差別撤廃委員会や子どもの権利委員会に報告されてきた。社会における差別を日本政府が放置している好事例である。
54 在日朝鮮人差別には、さまざまな現象形態があり、被害者も一様ではない。朝鮮総連、朝鮮学校が標的とされることが多いが、「嫌韓流」に見られるように韓国も差別対象とされてきた。また、日本社会には、本名を名乗らず「通名(日本名)」を名乗って暮らしている朝鮮人もいる。朝鮮人であることがわかると露骨な差別にさらされるために、本名を隠して生きざるを得ない状態そのものが構造的差別の証である。
55 2002年9月17日、日朝間で締結された「平壌宣言」は、歴史認識について日韓条約よりも一歩踏み込んだと評価される面もあるが、国家間の経済協力方式を採用し、被害者への個人補償を否定している趣旨と見られ、戦後補償運動からは批判がなされている。他方、朝鮮政府が日本人拉致問題を認めたことから、日本社会の感情的反発が激化し、財に朝鮮人に対する差別と犯罪を誘発するとともに、「制裁」によりヒト、カネ、モノの遮断が行われ、朝鮮人団体関係者に対する弾圧捜査、政治問題化とマスコミ過熱報道により排外主義があおられている。現在の高校無償化からの朝鮮学校除外問題もその延長上にある。
56 在日朝鮮人の人権擁護運動は、民族団体の組織、民族教育の形成・確立、自由と平等を求める差別撤廃運動など、在日朝鮮人自身が立ち上がることによって多彩に取り組まれてきた。日本社会においても、日韓連帯、日朝連帯の運動とともに朝鮮人の人権擁護のための取組みが続き、戦後補償運動などとともに、思想的にも実践的にも大きな成果をあげ、日本社会に少なからぬ影響を与えてきた。
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Ⅳ 韓国併合100年における植民地主義と差別(第一次案)其の四
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――差別と抑圧の歴史、民衆の闘いの歴史
A 差別の現在
65 いまも続く朝鮮人差別
韓国併合100年に当たる2010年に際して、韓国併合による植民地支配の反省を訴える日本の市民によるさまざまなアピール、集会、学習会の取組みがなされていることを歓迎する。しかし、同時に、日本政府による朝鮮人差別がいまなお続き、日本社会における心ない差別と排外主義が噴出していることを指摘せざるをえない。
66 高校無償化除外問題
2010年4月、日本政府は高校無償化を導入したが、朝鮮学校への適用を見送り、朝鮮学校の教育課程を確認するという名目で第三者委員会なるものを設置したという。背景には、2010年2月の大臣発言に始まった政治問題化があり、政治問題を教育現場に持ち込む差別的処遇がなされている。2010年2月24日、人種差別撤廃委員会において差別への懸念が語られた。3月11日、同委員会は、同様に朝鮮学校排除と政治問題化を差別的な影響をもたらすものと指摘し、差別の是正を勧告した。さらに2010年5月28日、子どもの権利委員会においても同様の指摘がなされた。それにもかかわらず、日本政府は差別政策を取り続けている。
67 大学受験資格差別
朝鮮学校に対する差別政策は、一貫して長期的に採用されてきた。朝鮮高級学校卒業生の大学受験資格問題では、文部科学省がしつように朝鮮学校排除を推進してきた。多くの私立大学においては、「高等学校に準じる」規定の適用によって受験を認めてきたのに対して、文部科学省はこれを否定し、とりわけ国立大学には受験させないように規制してきた。今日では国立大学も朝鮮学校卒業生の受験資格を実質的に認めているが、必ずしも文部科学省の差別政策が変化したわけではない。
68 税制差別
人種差別撤廃委員会の日本政府に対する勧告でも言及されているように、助成金や免税措置についても、朝鮮学校に対する差別が続いている。中央政府による助成金は終始一貫して皆無である。一部の地方自治体による助成金があるが、金額は僅かである。朝鮮学校への寄付金についての控除(免税措置)が認められていない。アメリカン・スクールなど外国人学校にも認められているのに、朝鮮学校だけを排除している。
69 朝鮮学校とその他の外国人学校
日本政府による差別は、1948年の阪神教育闘争、1965年の文部次官通達、1968年以後の外国人学校法案問題、1994年に解決したJR通学定期券差別、看護士資格差別など、現象形態は時期によりさまざまに変化してきたが、一貫して続いている。近年の重要な変化は、かつては朝鮮学校を含む外国人学校と日本学校との間の差別であったが、最近では、朝鮮学校とその他の外国人学校の間にも差別を設けて、朝鮮学校だけを徹底的に差別する方針が貫かれていることである。
70 日本学校における民族教育の否定
日本政府は朝鮮学校を差別して、朝鮮人を日本学校に通わせるように誘導しながら、1965年の文部次官通達により、日本学校における朝鮮人の民族教育を否定した。朝鮮人を日本人化する同化政策であり、植民地主義の延長にある。
71 新在留管理制度
日本政府による朝鮮人差別の根幹には、在留資格問題と出入国管理問題があった。ここでも近年、変化が見られる。それは、差別政策の動因がもっぱら朝鮮人差別と管理であった時代と異なり、最近では新たな移住者に対する差別と管理が前面に出てきていることである。永住者とそれ以外の外国人との間の差別がたくみに設けられている。2009年の新在留管理制度関連法も、外国人の管理と選別を目的としている。現在も、韓国籍でない者に対して再入国許可免除を認めず、みなし再入国許可を発布しない。新法においても「友好な旅券」規定があるため、国交のない朝鮮の旅券を認めない方針が続いている。同様に国交のない台湾やパレスチナとも異なる取り扱いをしている。
72 国民年金差別
国民年金差別も日本政府によって一貫して採用されている。かつては外国人全体を年金制度から排除していた。1982年改正により、朝鮮人も年金制度の適用を受けるようになったが、必要な経過措置が採られなかったことにより、朝鮮人高齢者と障害者について差別が産み出されることになった。もっとも必要な人に対する年金が消されてしまった。2008年10月の「市民的政治的権利に関する国際規約」に基づく自由権規約委員会による是正勧告にもかかわらず、日本政府は差別政策を改めようとしない。
73 公的施設使用拒否
東京都による日比谷公会堂使用拒否に見られるように、朝鮮人の公的施設使用に対する拒否が行われている。同時に民間施設においても、朝鮮人に対する使用拒否、使用許可の取り消しが行われることがある。東京都による使用拒否は、裁判所による救済があったので、日本政府が差別を行ったわけではないが、日本政府によるさまざまな差別に便乗・同調して、地方政府が朝鮮人差別を露骨に行った事例である。それが民間施設に対しても負の影響を及ぼしている。金剛山歌劇団の文化公演に対する妨害も行われている。
74 社会における差別
日本社会における差別も枚挙に暇がないが、今日、注目しなければならないのは、新たな排外主義と差別の煽動の顕在化である。社会の底流に存在してきたさまざまな陰湿な差別とは別に、朝鮮人組織、朝鮮学校などに押しかけて暴力行為や差別発言を繰り返す、ヘイト・クライム(憎悪犯罪)がはびこっている。中国人やその他のアジア系外国人に対しても暴力、恫喝、嫌がらせが続いている。
75 ヘイト・クライム(1)
2009年12月4日、在日特権を許さない市民の会(在特会)と称するヘイト・クライム集団が、京都朝鮮第一初級学校に押しかけ、同校がグランドとして使用していた公園で騒ぎ、器物損壊、差別、名誉毀損、侮辱の言説を撒き散らし、強要、恫喝を繰り返した。日本の市民による在特会に対する抗議行動も広範に取り組まれているが、警察は在特会を取り締まることなく、その後も犯罪的行為が継続している。2010年2月14日および3月28日にも、在特会などは京都朝鮮第一初級学校に向けての排外主義のデモ行進を行った。
76 ヘイト・クライム(2)
2009年11月、在特会は、東京都小平市の朝鮮大学校にも押しかけ、同校正門前で朝鮮人差別の煽動行動を繰り返した。同様に、在特会は、東京、福岡など各地にある在日本大韓民国民団本部や支部に押しかけ、誹謗中傷を繰り返してきた。名古屋市立博物館における歴史展示を妨害し、京都府のウトロ地区や大阪市の生野地区など朝鮮人集住地域において排外主義デモを行い、民族差別の言辞を撒き散らしてきた。在特会は、埼玉県蕨市においてフィリピン人家族に対する排外主義デモを行ったのを手始めに、東京秋葉原でも排外主義デモを行い、東京池袋における中国人商店に対しても営業妨害行為を行うなど、朝鮮人、中国人、その他の外国人に対する差別行為を続けている。
77 ヘイト・クライム(3)
在特会に代表される排外主義と差別の隆盛については、日本経済の落ち込みと不況による失業や労働の不安定化、不安定雇用の底辺に置かれた若者の不安とストレス、経済大国から脱落しつつある日本の現状への不安とこれに呼応したナショナリズムなど、さまざまな要因が指摘されている。同時に、1990年代に本格化した、日本軍性奴隷制問題を典型とする戦後補償要求運動(日本による侵略戦争や植民地支配に関連する被害者個人への補償要求運動)への政治的反動、感情的反発に由来する歴史の歪曲、歴史教科書問題などに関連するイデオロギー的逆流現象があったことも忘れてはならない。
78 愛国心と嫌韓流
1990年代における「従軍慰安婦論争」「南京大虐殺論争」「歴史教科書論争」は、日本の侵略戦争や植民地支配の責任を逃れ、そのために侵略戦争や植民地支配を美化し、事実を歪曲・隠蔽し、被害者を侮辱し中傷する政治傾向を生み出した。テレビ・映画・音楽などの文化的分野における「韓流」ブームにもかかわらず、政治的には「嫌韓流」が意図的に作り出され、日本の歴史と伝統の誇りを呼号する「愛国心」が叫ばれるようになった。
79 「反日」攻撃
その結果として、「愛国心」に反すると見做されたすべての人々や出来事を「反日」と断罪し、激しい攻撃が加えられるようになった。朝鮮人、中国人、アジアやラテン・アメリカからの移住者、難民認定申請者に対する排外主義と差別は、在日朝鮮人の人権、戦後補償運動、移住者の権利、難民認定申請者への支援運動を行っている日本人に対しても、激しい敵意をむき出しにした攻撃を続けている。東京都三鷹市における「慰安婦」展、兵庫県宝塚市や西宮市における「従軍慰安婦」問題の解決を求めるアピール行動に対する妨害行為がその代表である。こうした差別と排外主義に反対して立ち上がった市民に対しても、2009年12月19日、東京都飯田橋で開催された集会や、2010年3月28日、京都市河原町で行われたデモ行進などに対して、在特会は実力行使による妨害行為を続けている。気に入らないものには「反日」というレッテルを貼り付けて、攻撃を続けている。
80 社会的差別
他方、不動産業者および地主による、朝鮮人を始めとする外国人に対する賃貸ビル・アパート・マンション入居差別が、長期にわたって報告されてきた。社会的差別も、時期によりさまざまな現象形態となって現れる。高等学校体育連盟によるスポーツ大会への朝鮮学校参加、JRによる朝鮮学校生徒の通学定期券除外問題などは1990年代に解決したが、クレジット・カード入会、ゴルフ場会員権などにも差別が発覚することがある。銭湯における入浴禁止、公共プールにおける利用禁止、一般商店における入店禁止など、各地で異質な他者に対する敬遠・偏見に由来する行為が報告されている。
81 国家による差別と社会的差別
現在の日本国家による差別と日本社会における差別は、それぞれ無関係の別個のものではなく、相互に支えあって構造的差別を形成している。国家による差別が、社会における差別と不寛容に根拠を与えている。政府が公然と差別をしている社会では、一般の人々にも差別が許されているというメッセージが常に発せられている。政府の言明とマスメディアの伝達により、差別がいっそう強化されている。社会におけるさまざまな差別現象は、政府が日本国憲法と国際人権諸条約に基づいて適切に対処しなければならないが、日本政府は、それどころか社会的差別を温存することにより、政府の怠慢を弁解している。社会的差別が国家による差別の正当化、無視、隠蔽を支えている。
B 差別の歴史的原因
82 差別と日本近現代史
現在の日本国家による差別と日本社会における差別の原因と形態は、差別の現代日本的形態を的確に理解し、被害者の状況を把握するためには、近現代日本史の総体的分析を必要とする。
83 植民地主義の考察
東アジアにおける人種差別等の被害者を明らかにするという、本宣言に必要な限りで考察する場合にも、近代日本による植民地主義の歴史が中軸にすえられる必要がある。近代日本における植民地主義は、少なくとも、第1に、台湾や朝鮮半島に対する侵略戦争(植民地化戦争)、第2に、植民地化した地域における植民地政策、そして最後に脱植民地過程(とりわけ植民地責任の未清算)の3つの局面にわたって検討される必要がある。
84 「朝鮮人」という言葉
本宣言において用いられている「朝鮮人」という言葉そのものが、このような日本の植民地主義の変遷過程によってさまざまに刻印され、多義的で、かつ論争的な言葉となってきたことを指摘しておかなければならない。在日朝鮮人、在日韓国人、在日朝鮮・韓国人、在日コリアンなどさまざまな呼称が用いられ、時に激しい論争を必要とすることになったこの言葉は、日本による植民地化戦争、植民地政策そして脱植民地過程を通じて、変容してきた歴史的諸関係を反映している。本宣言では、「在日朝鮮人」を、朝鮮半島出身者およびその子孫を指す言葉として用いるが、これらの言葉をめぐる定義問題に立ち入らない。
85 朝鮮植民地化
日本による朝鮮植民地化は、豊臣秀吉による朝鮮侵略戦争や、江戸時代におけるさまざまな朝鮮侵略思想といった底流を持つが、近代における植民地化は、屯田兵によるアイヌモシリ(蝦夷=北海道)日本編入、小笠原諸島の日本編入、琉球処分に始まる沖縄県設置と続いた「国内植民地」の時期を経て、台湾および朝鮮半島に触手を伸ばす対外的進出として具体化した。「日清戦争」が終結した後、大日本帝国は、1895年10月、ロシアの影響排除を目的として朝鮮政府の権力構造に実力で介入し、朝鮮王宮に進攻し朝鮮政府軍、官僚、女官、王后を虐殺した。現場首謀者はソウルにおける外交の最高責任者、領事・三浦梧桜以下であり、日本軍と連携をとり景福宮に侵入した。これらの行為に対して日本政府による真相究明はいまだ取組まれていない。
86 義兵闘争
乙未事変(ウルミサピョン)と朝鮮政府内での前年からの甲午改革(カポケピョク)による近代的改革の推進に対し、朝鮮民衆は義兵闘争を起こした。
87 乙巳保護条約
1904年、ロシアと日本の緊張が高まり、「日露戦争」を開始し、1897年に国号を変えていた大韓帝国に対して、軍事力を背景に「議定書」、「日韓協約」を強制締結させた。1905年、日露戦争の収束後、日本は一方的な「乙巳保護条約」と言われる「保護条約」を「特派大使」として乗り込んだ伊藤博文が大韓帝国皇帝・高宗(コジョン)を威嚇し、武力示威を後ろ盾に調印を強要した。これらの強制的な「保護条約」により、日本による強制占領が開始された。これに対して、1907年、高宗はオランダ・ハーグで開催された第二回万国平和会議に秘かに特使を派遣し、乙巳条約の不法と強要、侵略を世界に広く知らせようとした。しかし、日本は天皇陸仁の名のもと高宗皇帝を息子に強制譲位させ、軍隊を解散させ、内政権を掌握する協約締結を強要し占領政策を強化した。朝鮮民衆は義兵の決起を続け、軍人の抗日闘争が起きソウル市内で日本軍と市街戦になり、軍人は義兵部隊に合流した。義兵戦争が拡大し、抗日戦争となった。義兵の戦死者2万人、民衆へのジェノサイド数万人ともいわれる日本軍の暴力支配の究明が求められる。「日清戦争」「日露戦争」とは、日本側の呼び名にもかかわらず、朝鮮植民地化のための侵略戦争であった。
88 安重根と大逆事件
1909年10月26日、安重根(アン・ジュングン)はハルビン駅構内で伊藤博文・朝鮮統監府前統監を射殺した。日本外務省管轄下にある関東都督府地方法院における審理で、安重根は、侵略者・伊藤博文の罪を予審訊問や法廷で述べ「国土と民衆」を蹂躙したこと、韓国と東洋の平和が侵害されている現実とその責任を挙げ「東洋平和論」を述べた。しかし、1910年3月26日、殺人の罪で処刑された。同じ1910年、日本では天皇殺害計画があったとして社会主義者たちを壊滅させる大弾圧として大逆事件が「発覚」した。幸徳秋水ら12人が処刑された大逆事件の弾圧と、韓国強制併合は同時進行であった。
89 強制併合条約
1910年8月22日、日本はソウルにおいて、日本軍の圧力の下に、大韓帝国に併合条約を強制締結させた。
90 植民地支配と抵抗の継続
日本による朝鮮総督府は三権を掌握し、憲兵・警察を駆使した暴力支配で日本への同化主義を採用し、朝鮮人による新聞・雑誌発行を制限し、宗教以外の自主的社会活動を認めず、占領、植民地支配を徹底した。これに対して、朝鮮人民は、抗日独立運動の闘いを継続した。
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Ⅳ 韓国併合100年における植民地主義と差別(第一次案)其の五
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2009-06-05T19:08:00+09:00
2010-09-11T19:11:28+09:00
2010-09-11T19:11:28+09:00
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日本は、国策会社であり天皇・皇族が大株主の東洋拓殖会社に、政府補助金により土地の買収を進めさせた。1910~18年の「土地調査事業」で日本が接収した土地のうち1万1400町歩が、東洋拓殖会社に現物出資され、植民地経営の一翼として朝鮮人小作農に貸し付け、最大の地主として植民地支配を支えることになった。農民は過酷な条件により生活を圧迫され、離農を余儀なくされ、移住労働者にならざるを得なかった。
92 3.1独立運動
1919年のパリ講和会議で、「民族自決」「植民地問題の公正解決」が国際的な議論となった。日本に留学していた朝鮮学生は、この国際情勢を独立の機会と考え、「朝鮮青年独立団」を組織し、独立宣言書と決議文を発表した。民族の生存権を主張した「2・8独立宣言」である。かくして「3・1」独立運動が決起した。パコダ公園に学生・市民が集まり独立宣言書を朗読し、太極旗をもち、「独立万歳」を叫んで市内で示威運動を展開し た。宣言書は「吾等はここに朝鮮が独立国であること、朝鮮人が自主の民であることを宣言する」に始まり、「侵略主義、強権主義の犠牲となって10年の間に生存権が奪われたこと。子孫に安全な幸福を導き迎えるには民族的独立を確実にする」と記された。
93 独立運動に対する虐殺
朝鮮全土で200万人余りの民衆参加があり、中国東北地方にも広がった反日独立闘争に対し、日本の警察と軍隊は、銃剣で厳しい弾圧を加え、京畿道水原の堤岩里虐殺を含め7000人を肥える民衆虐殺、5万人近くの逮捕者というというジェノサイドを行なった。独立闘争はおさえられたが、3・1運動はアジア各地の民衆に多大の影響を与え、近代史上最大の反日独立闘争であった。
94 懐柔と抵抗と
このため、斉藤実・朝鮮総督は、暴力支配を根幹とする治安維持政策とともに、朝鮮民衆への懐柔と分断政策を進めた。この時期、民衆は新たな抵抗運動を組織し、集会・結社・言論活動を広げ、労働運動、農民運動、衡平運動を闘い始めた。同時期の日本本国の民衆による1918年の女性たちの決起を契機とした米騒動、1919年の労働運動の勃興、1920年の朝鮮民衆も参加した「日本社会主義同盟」の結成と、天皇制国家権力に対する闘いにおいて、朝鮮民衆と日本民衆の相互影響、共同闘争の萌芽を見ることができる。
95 間島での抵抗
その後、朝鮮独立運動は中国に展開し、臨時政府として上海に統合された。中国東北部の間島地方での武力闘争も続けられた。日本軍は、1920年8月、「間島地方不逞鮮人焦土計画」を立てたが、同年10月、金佐鎮部隊が青山里において日本軍に壊滅的打撃を与えた。その報復として、日本軍は、1921年4月まで間島地方の朝鮮人村落においてジェノサイドを敢行し、当初の2ヵ月間だけで殺害3600余名、婦女強姦70、家屋放火3200軒との報告に見られる暴虐を行った。
96 朝鮮革命宣言
1923年1月、独立活動家・申采浩(シン・チェホ)起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」は、独立闘争の理念と具体的行動を宣言した。それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが、民衆における階級問題や親日派への批判を明確にし、3・1独立宣言の限界を越える内容としていた。
97 関東大震災朝鮮人虐殺
1923年9月1日、日本の「帝都」東京周辺において関東大震災が起きた。政府、軍隊は、震災発生直後に戒厳令を施行するとともに、在留朝鮮人を脅威とするデマゴギーを流布した。震災直後から、軍隊や警察による朝鮮人虐殺が始まり、官憲の命令や教唆によりつくられた民衆による自警団の手による虐殺も含め、少なくとも6000人余りとも言われる人々が虐殺され、「関東大震災朝鮮人ジェノサイド」となった。
98 大東亜共栄圏と抗日闘争
1930年代以降も、中国東北部でのコミューンを拠点にした独立闘争、民族主義の立場での抗日戦争、中国や台湾、日本国内における闘争は続いた。一方、日本の「大東亜共栄圏」の版図は、抗日戦争、独立闘争を担う朝鮮の人々にとって戦場であり 義烈団や民族主義団体、社会主義グループによる抗日武装闘争、さらには数知れぬ名もなき民衆による非協力・不服従の抵抗が、取組まれた。
99 大日本帝国の民衆弾圧
大日本帝国の民衆弾圧は、本土・国内においては治安維持法=特高警察体制、大逆罪弾圧として現象し、朝鮮植民地支配における軍事暴力と対をなしていた。台湾や朝鮮を侵略し、植民地支配、占領した日本は、本国刑法を支配地において準用し、民衆の動きを徹底弾圧した。これに対して、独立活動家の一部は大日本帝国の中枢、天皇を攻撃目標とした。
100 労働者・学生・民衆闘争
朝鮮の労働者は、不当な違約金徴収、日本人との賃金格差も極端化し、賃金労働者の生活は困窮した。1921年、釜山の埠頭労働者争議を皮切りに争議が増加した。なかでも1929年の元山ストライキは最大の争議となった。しかし、警察や日本軍400名の動員により弾圧された。朝鮮人労働者を主体とする労働運動、組合結成、争議は日本国内でも取組まれ、朝鮮では光州学生闘争、新幹会の結成など民衆闘争も持続された。
101 大日本帝国と朝鮮人
日中戦争の激化からアジア・太平洋戦争への進展に伴い、1938年には、大政翼賛組織の国民総力朝鮮連盟が結成され、中央本部は朝鮮総督府に置かれ、朝鮮人労働者、軍人、軍属の「皇国臣民」化を進めた。中国侵略完遂のため、朝鮮民衆を大日本帝国に組み込むため、創氏改名、「東方遥拝」、「君が代」斉唱、「日の丸」掲揚、「御真影」と称する天皇の肖像への礼を強要した。朝鮮での徴兵実施に向け、1941年、朝鮮総督府は朝鮮語の学習を廃止し、「国語」として日本語使用を強制した。戦時体制強化のため「陸軍特別志願兵令」を公布し、徴用令その他様々な手段を通じて強制連行・強制労働を行った。最悪の軍事的性暴力であった日本軍性奴隷制(従軍慰安婦)も朝鮮女性を最初の犠牲者とした。
102 コリアン・ジェノサイド
日本による朝鮮侵略(植民地化戦争)と植民地支配のもとにおける被害は、計量不能である。この間の人的被害については、虐殺や逮捕の数を推定することはできる。強制連行・強制労働や性奴隷制被害者の数も推定することはできる。しかし、被害は、虐殺や強制連行だけではない。政治的弾圧、経済的搾取、文化破壊、これらを通じた家族崩壊、人格への打撃は、およそ計量化することができない。朝鮮民族全体に対する甚大なジェノサイドの被害は、数値化不能である。物的損害も同様である。土地調査事業、地下資源の収奪はもとより、あらゆる可能性が収奪、略奪、破壊、消尽された。
103 朝鮮と日本人
日本による朝鮮植民地支配に異論を唱えた民衆は、僅かであるが、実在した。石川啄木、金子文子、布施辰治、槇村浩・・・などの名前を歴史に刻むことも忘れてはならない。それは朝鮮に肩入れした日本人がいたことを誇るためではない。朝鮮を始めとするアジア民衆と真に連帯し、友好を築き上げる日本人の責任を喚起するためである。
C 継続する植民地主義と差別
104 日本の脱植民地過程の特殊性
今日も続く在日朝鮮人に対する差別は、以上の植民地主義の帰結であり、日本の脱植民地過程が植民地支配を清算することなく、あいまいにされた結果でもある。第二次大戦敗北後、日本は連合国による占領下に置かれ、人権指令による戦後民主化、日本国憲法の制定、極東国際軍事裁判所(東京裁判)による一部の戦犯裁判を経た。しかし、大日本帝国の侵略戦争と植民地主義の最大の責任者であった天皇の責任が問われることなく、天皇は象徴天皇に移行した。極東国際軍事裁判所に朝鮮人民の代表者は招待されず、日本による朝鮮人民に対する犯罪が裁かれることもなかった。アジア各地におけるいわゆるBC級裁判においては、日本国家の犯罪の責任が朝鮮人に押し付けられた。連合国は朝鮮人民を、一方では解放された人民としながら、他方では監視と抑圧の対象とした。その結果、日本は朝鮮植民地支配の責任を問われることなく、領土の喪失という形での脱植民地過程を経ただけであった。
105 日本人の被害者意識
日本民衆の間では、第二次大戦末期における連合国による空襲、ヒロシマ・ナガサキの被曝、および、樺太、旧「満州」、朝鮮半島など植民地からの引揚者の苦労話など、日本人の「被害」のみが語られることになった。日本が侵略したそれぞれの地の人民の苦難は省みられることがなかった。強制連行され、アジア各地に放置された朝鮮人のことも、日本人は速やかに忘れた。
106 外国人登録令
第二次大戦後、日本政府は迅速に在日朝鮮人差別政策を推進した。最初に行ったのが、大日本帝国最後の勅令(ポツダム勅令)である1947年5月2日の外国人登録令であり、「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」として、それまで日本国籍を押し付けられて日本人とされてきた朝鮮人を一方的に外国人とした。朝鮮半島が政治的混乱状態にあったこともあり、当時60万人を超えたといわれる在日朝鮮人が、その意思を問われることも選択権を認められることもなく、一夜にして「無国籍者」扱いされるという、世界史上まれに見る暴挙であった。
107 阪神教育闘争
1947年10月、連合国最高司令官の指令によって、在日朝鮮人が日本の教育基本法、学校教育法のもとに置かれることになった。1948年1月24日、文部省学校局長は通達「朝鮮人設立学校の取扱いについて」を出し、在日本朝鮮人連盟などが朝鮮民族の教育を行うために各地につくった国語講習会を閉鎖し、朝鮮人を日本学校に組み入れることにした(「朝鮮学校閉鎖令」)。これに対して、大阪府、兵庫県を中心に、朝鮮人は民族教育を守る闘争を展開した。1948年4月の阪神教育闘争とは、朝鮮民族が民族教育を求めて立ち上がり、これに日本人も協力して、大衆闘争として展開された。しかし、アメリカ軍憲兵や日本の武装警官隊により暴力的に弾圧され、16歳の少年が殺害され、数多くの負傷者と逮捕者を出して収束した。公安資料によると検挙者は7295名であった。同年5月5日、文部省は朝鮮学校を私立学校として認可すると認めた。1949年の朝鮮連盟解散と学校閉鎖令は一連の措置であった。
108 朝鮮半島の分断
在日朝鮮人に対する差別は、朝鮮半島の政治的分断、とりわけ朝鮮戦争という複雑な要因により、いっそう特殊な形態を与えられた。第二次大戦終戦の歴史的経過の中で、38度線(軍事境界線)による分断が始まった。1948年8月15日、朝鮮半島南部に大韓民国が樹立されると、同年9月9日、北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立した。1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、南北、およびアメリカ、中国による激烈な現代戦が戦われた。1953年7月27日に休戦協定が締結されたが、今日に至るまで和平が実現されていない。朝鮮半島の分断、とりわけ朝鮮戦争が、日本にとってもった意味は、まず何よりも植民地支配の清算を一切行わずに済んだことである。ドイツと異なって、敗戦国の日本は分断されることなく(ただし、沖縄等の問題は別に残る)、朝鮮半島が分断されることになった。さらに、日本は朝鮮戦争による特需によって経済復興を果たすという僥倖に恵まれた。しかも、日本列島は朝鮮戦争に出撃するアメリカ軍の軍事拠点となり、その後のアジアに対する軍事侵略の拠点につながった。日本政府は、朝鮮半島分断を奇禍として政治利用し、アメリカの意向に従って大韓民国に肩入れした。同時に、在日朝鮮人に対する分断が始まった。
109 外国人登録法
1947年の外国人登録令を受けた、1952年4月28日の外国人登録法は、「外国人の登録を実施することによつて外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もつて在留外国人の公正な管理に資することを目的とする」としたが、当時の在留外国人のほとんどが朝鮮人と中国人であり、これは朝鮮人を管理・弾圧するための法律であった。在留外国人の在留資格を不安定なものとし、日本に居住・生活する人間としての権利さえ認めない政策がとられた。
110 日韓条約
1965年6月22日、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓条約、日韓基本条約)」が締結された。これにより、日本による韓国併合のために大韓帝国との間で結ばれた諸条約が「もはや無効」(日本側)とされ、日本政府は大韓民国を朝鮮半島唯一の合法政府であると確認し、日本が韓国に経済援助を行うことで国交正常化を行った。韓国民衆も、日本民衆も、日韓条約反対運動を激しく繰り広げた。問題は数多いが、特に、第1に、朝鮮植民地化および植民地支配の歴史的検証がなされることなく、併合条約の評価も日韓双方に相違を残したままの条約であった。第2に、分断状態にあった朝鮮半島の一方の政府を唯一の合法政府とすることによって、分断を固定化させる役割を果たした。第3に、植民地支配の下での被害者個人への補償・救済が不十分に終わった。第4に、分断が在日朝鮮人社会に持ち込まれた。
111 外国人学校をめぐって
阪神教育闘争以後、在日朝鮮人は全国各地に朝鮮学校を設立して、自らの手で民族教育の権利を実現した。これに対して、日本政府は、植民地支配責任を一切取ることなく、それゆえ朝鮮学校に当然なすべき援助を一切行わなかった。それどころか、日本政府は朝鮮学校を管理・抑圧し続けた。1965年に文部省次官通達により、朝鮮人の民族性を涵養する教育を否定し、朝鮮学校を各種学校としても認めないとする朝鮮学校差別政策を推進し続けた。さらに、1968年3月に外国人学校法案が国会上程され、朝鮮学校に対する差別と抑圧を目的としたが、朝鮮人のみならず在留外国人および日本人も加わっての大衆闘争によって、法案は何度も阻止され、1972年に外国人学校法案は廃案となった。他方、東京都小平市に朝鮮人が建設した朝鮮大学校の認可も政治闘争課題となったが、1968年、東京都はこれを各種学校として認可した。
112 歴史認識と差別
日本における「歴史教科書」問題は、非常に歪んだ政治問題として知られている。日本によるアジア諸国への「侵略」を「進出」と変更させた文部省検定以来、事あるごとに内外の政治問題となってきた。1990年代以後は、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」「沖縄集団死」などの記述をめぐって歴史修正主義とこれに抗する市民の対立が激化してきた。個別の論点だけでなく、歴史教科書における朝鮮半島に関する記述の全体が、日本を中心に、他者=朝鮮人を見下す視線で描かれているとの指摘もなされてきた。他方、国連人権理事会のドゥドゥ・ディエン「人種差別問題特別報告者」や、2010年3月11日の人種差別撤廃委員会は、日本政府に対して、在日朝鮮人などの少数者が、日本社会において貢献してきた歴史的事実を記述するよう勧告した。
113 一貫した朝鮮学校差別
朝鮮学校に対して、日本政府は一切の援助を行っていない。地方自治体による助成金があるが、非常に僅少である。中華学校および朝鮮学校に対する寄付金についても税制控除が認められていない。この点は、日本学校との差別だけではなく、外国人学校の中でも朝鮮学校に対してだけわざわざ差別が導入され、インターナショナル・スクールには控除を認めている。JR各社(旧日本国有鉄道)は、文部省の要請のため、朝鮮学校生徒について通学定期券の発行を認めなかったが、広範な民衆の運動によって、1994年に通学定期券発行を認めた。朝鮮高級学校卒業生の大学受験資格差別も、1995年8月の国連人権委員会差別防止少数者保護小委員会(小委員会)にNGOから報告があったのを皮切りに、国連人権委員会や小委員会で繰り返し報告されるなど、内外の批判にさらされ、2003年8月11日の文部省による「弾力化」方針により、不十分ながら一部の解決を見た。しかし、2010年の高校無償化からの朝鮮学校除外問題に至るまで、つねに意図的に露骨な差別政策がとられてきた。
114 就職差別
日本政府はさまざまな国家資格について国籍条項を設けることによって、朝鮮人に対して資格を付与しない政策を展開してきた。このため朝鮮人が得ることのできない資格、つくことのできない職種が存在する。さらに、社会においても、企業が朝鮮人の就職機会を制限してきた。就職時に戸籍謄本を提出することを義務付けるなどの方法により外国人を排除することが続いた。1970~80年代に取り組まれた就職差別反対運動により一定の是正はなされたが、今日もなお朝鮮人の就業機会に差別的な傾向が続いている。また、朝鮮人経営企業は日本の銀行との取り引きにおいても不利な状況に置かれてきた。
115 在留資格問題と外国人登録法
1965年の日韓条約から25年後の1991年に、在日朝鮮人の在留資格を見直すこととされていたため、「1991年問題」を迎え、日本政府は、とりわけ人権侵害と批判に強かった指紋押捺の強制および外国人登録証常時携帯義務については一定の改正を施した。しかし、法制上は各種の違反について刑事罰が残存している。行政法の形式的違反に対して刑事罰を科すアンバランスが指摘されてきた。同時に、刑事罰を科すことによって警察が介入する機会を保持し、現実には公安警察が朝鮮人のプライヴァシーを剥奪する事態が続いている。
116 戦後補償と戦争犯罪
1980年代後半から、日本による戦争と植民地支配による被害者たちの権利要求運動が始まった。1990年代には、戦後補償運動と呼ばれるようなさまざまな運動が広がり、日本政府に対して被害者への謝罪や補償の要求が突きつけられることになった。半世紀遅れの「正義の回復」要求であった。被害者は、強制連行・強制労働、軍人軍属、日本軍性奴隷制(従軍慰安婦)、七三一部隊・細菌戦、南京大虐殺、重慶爆撃、捕虜虐待・強制労働など実に多様な問題の被害者たちであった。終戦から半世紀を経て、高齢と病気に苦しむ被害者たちが人間の尊厳を求めて立ち上がった運動は、世界に大きな影響を与えた。1990年代における旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷(ICTY)、ルワンダ国際刑事法廷(ICTR)、そして1998年7月に採択された国際刑事裁判所規程に基づいて2002年に設立された国際刑事裁判所(ICC)、さらには東ティモール、シエラレオネ、コソヴォ、カンボジアに関して設置された「国際化された法廷(混合法廷)」など、国際刑事司法は、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイドなどを重大な国際犯罪とした。世界各地における重大人権侵害の「不処罰の連鎖」を断ち切るための運動の先頭に、日本による戦争と植民地支配の被害者たちがいた。
117 日本軍性奴隷制問題の解決を求めて
重大人権侵害の犯行者を裁き、被害者に対する謝罪と補償を実現し、再発防止を求める世界的運動のなかでも、1990年代に飛躍的な発展が見られたのが、女性に対する暴力、とりわけ戦時性暴力問題である。ここでもアジア各地の日本軍性奴隷制被害女性の闘いが重要な役割を果たした。1993年12月10日、国連総会は「女性に対する暴力撤廃宣言」を採択した。1996年4月、国連人権委員会は、ラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」による「日本軍性奴隷制問題報告書」を採択した。1998年8月、人権委員会差別防止少数者保護小委員会は、ゲイ・マクドゥーガル「戦時性暴力問題特別報告者」の報告書を採択した。これらの特別報告者は、日本軍性奴隷制に関する日本政府の法的責任を認定し、被害者への謝罪と補償を日本政府に対して勧告した。これらの勧告を実現する闘いの先頭を切ったのが、韓国、朝鮮、台湾、中国、フィリピンの被害女性(サバイバー)たちであった。2000年12月には、「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が東京で開催され、1990年代から続いた戦後補償運動のピークとなったが、ここには約70名もの被害女性(サバイバー)が集まった。
118 東北アジアの緊張と朝鮮人差別
日本社会における朝鮮人差別の被害者や現象形態も時代とともに変化してきたが、「チマ・チョゴリ事件」は、日本社会の特質を如実に示すものとして、国連人権委員会、人権小委員会などに報告されるとともに、世界のメディアにも取り上げられた。1989年、日本国会において「パチンコ疑惑」騒動が起きると、朝鮮学校に通う女子生徒に対する差別・暴言・暴力事件が各地で頻発した。1994年、「北朝鮮核疑惑」問題に伴って、同様に各地でチマ・チョゴリを斬る事件が頻発した。この頃から「チマ・チョゴリ事件」と呼ばれるようになった。1998年の「テポドン騒動」、2002年の「拉致問題」、2006年以後の「人工衛星・ミサイル」発射や「核実験」問題に際しても、朝鮮学校に対する脅迫電話、無言電話が続き、女子生徒に対する暴言・暴力事件が相次いだ。これは社会における差別と犯罪であるが、犯行者が男女年齢を問わなくなってきたと指摘されている。被害者は朝鮮高級学校生徒のみならず、朝鮮初級学校(小学校)の年少生徒にも及んでいる。加えて、犯行が路上、電車の駅構内など公開の場で行われたにもかかわらず、犯行者がほとんど逮捕されないことも、人種差別撤廃委員会や子どもの権利委員会に報告されてきた。社会における差別を日本政府が放置している好事例である。
119 構造的差別
在日朝鮮人差別には、さまざまな現象形態があり、被害者も一様ではない。朝鮮総連、朝鮮学校が標的とされることが多いが、「嫌韓流」に見られるように韓国も差別対象とされてきた。また、日本社会には、本名を名乗らず「通名(日本名)」を名乗って暮らしている朝鮮人も多い。朝鮮人であることがわかると露骨な差別にさらされるために、本名を隠して生きざるを得ない状態そのものが構造的差別の証である。
120 平壌宣言
2002年9月17日、日朝間で締結された「平壌宣言」は、歴史認識について日韓条約よりも一歩踏み込んだと評価される面もあるが、国家間の経済協力方式を採用し、被害者への個人補償を否定している趣旨と見られ、戦後補償運動からは批判がなされている。朝鮮川は、物的請求権と人的被害に関わる請求権とを区別しているようだが、宣言文からはこの点は必ずしも明らかでない。他方、朝鮮政府が日本人拉致問題を認めたことから、日本社会の感情的反発が激化し、在日朝鮮人に対する差別と犯罪を誘発するとともに、「制裁」によりヒト、カネ、モノの遮断が行われ、朝鮮人団体関係者に対する弾圧捜査、政治問題化とマスコミ過熱報道により排外主義があおられている。現在の高校無償化からの朝鮮学校除外問題もその延長上にある。
121 人権擁護のために
在日朝鮮人の人権擁護運動は、民族団体の組織、民族教育の形成・確立、自由と平等を求める差別撤廃運動など、在日朝鮮人自身が立ち上がることによって多彩に取り組まれてきた。日本社会においても、日韓連帯、日朝連帯の運動が取り組まれるとともに、朝鮮人の人権擁護のための取組みが続いた。思想的にも実践的にも大きな成果をあげ、日本社会に少なからぬ影響を与えてきた。1990年代以後の戦後補償運動においては、朝鮮、韓国、在日のさまざまな立場から自由闊達な議論が展開され、これに日本人が加わることによって、東アジア民衆連帯の可能性を切り拓く試みが続いている。
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Ⅴ 東アジアにおける人種主義、人種差別外国人排斥…不寛容の根絶
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2009-05-31T07:28:00+09:00
2010-09-12T07:31:23+09:00
2010-09-12T07:30:52+09:00
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122 人種差別廃止のために
不公平な政治・経済・文化・社会条件が人種差別等を育て、それが不平等をますます悪化させる。発展の領域を含むすべての領域ですべての者の真の機会の平等が、人種差別等の廃止にとって基本である。
123 人種差別撤廃条約の遵守
人種差別撤廃条約の普遍的な支持と完全な実施が、東アジアにおける平等と非差別を促進するのに最も重要である。日本政府は、人種差別撤廃条約を完全に実施するために、同条約第4条(a)(b)の留保を撤回するべきである。日本政府は、人種差別撤廃条約に基づいて設置された人種差別撤廃委員会からなされた2001年および2010年の諸勧告を実施するべきである。
124 人種差別等の予防と廃止
東アジアにおけるすべての諸国が、人種差別等の予防と廃止における基本要素としてのすべての人権、発展の権利を含む経済・社会・文化・市民・政治的権利の普遍的尊重、遵守、保護を促進するよう厳粛な公約をすべきである。とりわけ、日本政府はその歴史ゆえに、東アジアにおける人種差別等の予防に大きな責任を有し、役割を果たすべきである。
125 人種差別克服の阻害要因
人種差別を克服し平等を達成するのを妨げるのは、主として、政治意思の欠如、立法の弱体、国家による実施戦略と具体的行為の欠如、ならびに人種主義的態度と否定的なステレオタイプの流行である。
126 人種差別撤廃立法
法律制定や政治・社会・経済政策を含む国際人権規範と義務の教育、発展、誠実な実施が、人種差別等と闘うのに決定的である。日本政府は、人種差別撤廃条約第2条に従って、人種差別を撤廃するための立法措置を行なうべきである。
127 ヘイト・クライムの不処罰
人民の必要と念願に応じた民主主義、透明性、責任、説明責任、参加統治、および、人権、基本的自由の尊重、および法の支配が、人種差別等の効果的予防と廃止にとって不可欠である。人種主義者や外国人排斥の態度に動機づけられた犯罪の不処罰は、法の支配と民主主義を弱体化させる役割を果たし、そうした行為の再発を促すことを再確認する。
128 包括的人種差別禁止法の制定
日本政府は、人種主義者や外国人排斥の態度に動機づけられた犯罪の不処罰に終止符を打つために、ヘイト・クライム処罰法を含む包括的な人種差別禁止法を制定するべきである。人種差別撤廃条約第4条(a)(b)は、人種差別の煽動を処罰し、人種差別団体を規制する事を締約国に求めている。2010年の人種差別撤廃委員会は、日本政府に人種差別禁止法の制定を勧告した。日本政府は第4条(a)(b)の留保を撤回し、包括的な人種差別禁止法を制定する必要がある。
129 政治指導者による差別発言
政治指導者と政党が、人種差別等と闘うのに役割を果たすことができ、またそうするべきである鍵の役割を強調し、政党が連帯、寛容および尊重を促進する措置を講じるよう奨励する。政治指導者と政党が、人種差別等を助長し煽動することは、人種差別撤廃条約第4条(a)(b)によって禁止するとされた犯罪である。日本政府は、東京都知事など高位の公務員による人種差別発言を擁護する姿勢を改めて、犯罪として取り扱うべきである。2001年および2010年の人種差別撤廃委員会による勧告に従って、日本政府は東京都知事らの人種差別発言を抑止するよう努力する必要がある。
130 人種差別イデオロギー
東アジアに、人種的偏見や民族的偏見に基づく暴力的な国家主義イデオロギーが存在する。どのような場合であれ、どのような条件であれ、このような現象が正当化されてはならない。
131 政府による人種差別等の帰結
人種主義、外国人排斥および人種的優越の理論その他の差別に基づいた政治綱領と組織、ならびに人種差別等に基づいた立法と実務は、民主主義、透明性、責任ある統治と矛盾するものとして非難する。政府の政策によって容認された人種差別等は人権を侵害し、人民の間の友好的関係、諸国の間の協力、国際平和と安全保障を危うくする。
132 ヘイト・クライムの禁止
人種的優越や憎悪に基づく宣伝は、世界人権宣言に体現された諸原則および人種差別撤廃条約第5条に明定された諸権利に照らして、法によって処罰される犯罪であると宣言されるべきである。
133 人種差別煽動組織の規制
人種差別撤廃条約第4条(b)が、人種的優越や憎悪に基づいた観念、暴力行為やそうした行為の煽動を宣伝する組織に対して用心深くし、裁判にかけることを各国の義務としていることに留意する。人種差別煽動組織は非難され、阻止されるべきである。
134 メディアの役割
メディアは多文化社会の多様性を描写し、人種差別等と闘うのに役割を果たすべきである。この点で、広告の力にも関心を寄せる必要がある。
135 メディアによる差別助長
一部のメディアが、被害を受けやすい集団と個人、とくに移住者と難民について誤ったイメージとステレオタイプを助長して、公衆の間に外国人排斥や人種主義の感情を広げるのに寄与し、個人や集団の人種主義者による暴力を助長してきたことは残念である。
136 メディアの積極的役割
メディアは、東アジアにおいて社会発展に貢献してきた先住民族、マイノリティ、移住者の現状を正しく伝え、彼女ら/彼らのニーズに応える必要がある。
137 マイノリティによるメディア
東アジアにおける先住民族、マイノリティ、移住者によるテレビ・ラジオ放送局の開設や、放送番組の製作・放映が、彼女ら/彼らについての社会イメージの改善に大きな役割を果たす。
138 被害者とメディア
人種差別等の被害者の声を伝えるコミュニティ・メディアの重要性をすべての国家が認めるべきである。とりわけ日本政府は、その歴史的責任からも、そうした努力の先頭を切るべきである。
139 新しいメディア
とくにメディアと、インターネットを含む新しいテクノロジーによる表現の自由の権利行使、および情報を求め、受け取り、伝達する自由の完全な尊重が、人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容との闘いをするのに積極的な貢献をすることを認める。この点で、メディアの編集の独立性と自律が尊重される必要がある。
140 インターネットと差別
人間的価値、平等、非差別の尊重や、他者と寛容の尊重とは逆の目的で、人種憎悪、や人種差別等の宣伝などのためのインターネットなどの新しい情報テクノロジーの利用、および、新しい情報テクノロジーにアクセスするとくに子どもと若者がそれによって否定的な影響を受けている。
141 差別との闘いとインターネット
人種差別等との闘いに役立てるためのインターネットなどの新しい情報伝達テクノロジーの利用を促進する必要性も認める。新しいテクノロジーは、寛容と人間の尊重、および平等と非差別の原則の促進を支援することができる。
142 権力と差別
公の当局・制度・メディア・政党・国家機関・地方機関の作為・不作為による異なった出身の人びとへの非難は、人種差別行為であるのみならず、人種差別行為の再発を煽動するものであり、それによって人種主義的態度や偏見を増強する悪循環をつくりだす結果になり、非難されねばならない。
143 人権教育
とくに人権教育における、すべてのレベル、すべての年齢における、家庭内教育を含む教育が、人種差別等に基づく態度や行動を変化させ、社会における寛容と多様性の尊重を促進する鍵であることを認める。さらに、こうした教育が正義と平等という民主的価値の促進、宣伝および保護における決定的要素であり、人種差別等の流布を予防し闘うのに必要である。
144 平等教育
平等教育、非識字の根絶、すべての者の無償初等教育へのアクセスは、より包容的社会、公平、諸国・人民・集団・個人の間の安定した調和関係と友好、平和の文化に貢献し、相互理解・連帯・社会正義・すべての者のすべての人権の尊重を促進することができる。
145 教育の権利
教育の権利と人種差別等との闘いの間の結合、および、人権教育や文化的多様性に敏感でこれを尊重する教育、とくに子どもと若者の教育が、すべての形態の不寛容と差別の予防と撤廃に重要な役割を有する。
146 高校無償化除外問題
2010年2月以来、政治問題とされた朝鮮学校の高校無償化からの除外は、2010年3月の人種差別撤廃委員会勧告が指摘したように、不当な差別であり、すみやかに是正されなければならない。
147 教科書検定(1)
家永教科書裁判などの裁判を通じて明らかにされたように、日本の学校教科書に関する教科書検定は、教育内容の国家的統制であり、思想の自由や表現の自由に抵触するばかりではなく、教育内容をゆがめ、子ども・生徒が教育を受ける権利を損なうものであると指摘する。
148 教科書検定(2)
教科書検定において、とりわけ歴史教科書の記述に関して、特定の国家主義イデオロギーに基づいた歴史歪曲、史実の隠蔽が続いてきたことを遺憾に思う。
149 「歴史教科書論争」
1990年代後半に浮上した「歴史教科書論争」、同時並行的に行なわれた「歴史認識論争」「従軍慰安婦論争」などにおいて、特定の国家主義イデオロギーに基づいて、日本の植民地支配を正当化し、侵略戦争を美化し、都合の悪い史実を隠蔽する社会的潮流が台頭したことに留意する。
150 歴史の事実と教科書記述
1996年の国連人権委員会のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」が、「従軍慰安婦」の史実を歴史教科書に記述し、教育課程に取り入れるよう勧告したことを想起する。それにもかかわらず、日本政府は歴史教科書からの「慰安婦」記述の削除を政策的に進め、教科書執筆者の多くが「慰安婦」記述の削除に従ってきたことを遺憾に思う。さらに、歴史を歪曲する異様な国家主義イデオロギーに基づく歴史教科書などが登場し、政治的圧力を用いて教育現場に持ち込まれたことを非難する。
151 未来をひらく歴史教科書
日本、韓国、中国の民間における歴史教材づくりと研究の交流の促進と成果について未来を開く歴史
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Ⅵ 東アジアにおける人種差別等の被害の効果的な救済、回復、是正、補償その他の措置
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2009-05-23T18:30:00+09:00
2010-09-11T18:34:38+09:00
2010-09-11T18:32:00+09:00
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Ⅵ 東アジアにおける人種差別等の被害の効果的な救済、回復、是正、補償その他の措置
152 歴史の事実と真実
東アジアにおける過去の悲劇を全面的に認識できるようにするために、人類史の事実と真実を教えること、ならびに人種差別等の歴史、原因、性質と結果の事実と真実を教えることが重要である。
153 犠牲者の記憶
東アジアにおける奴隷制、奴隷取引、植民地主義およびジェノサイドがもたらした大規模な人間の苦痛と、無数の女性、男性、および子どもたちの苦難を深い悲しみとともに心に刻む。過去の悲劇の犠牲者の記憶に敬意を捧げる。それらがいつどこで起きたものであれ非難されねばならず、再発予防されねばならない。奴隷制等の慣行や、それに関わる組織が、政治的、社会経済的、文化的に、人種差別等をもたらしてきたことを残念に思う。
154 過去の悲劇の苦痛と害悪
東アジアにおける奴隷制、奴隷取引、植民地主義、ジェノサイドおよび過去の悲劇の結果として無数の女性、男性、および子どもたちに加えられた語られざる苦痛と害悪を深い悲しみとともに心に刻む。同時に、東アジアと異なり、世界には、重大かつ大規模侵害について進んで謝罪をした国家や、補償を行なった国家と社会があることに留意する。
155 被害者の尊厳の回復
歴史の暗い章を閉じ、和解と癒しを実現するために、東アジア地域の諸国と人民がこれらの悲劇の犠牲者の記憶に敬意を捧げるよう勧める。さらに、世界には、進んで「謝罪を表明する」としてきた国家があることに留意し、被害者の尊厳を回復しようとしない日本政府に、そのための適切な方法を見いだすよう呼びかける。
156 道義的責任と義務
関連するすべての国家と社会に道義的責任と義務があることを認め、重大人権侵害の慣行の結果が継続しているのを停止し、流れを逆転させるために適切で効果的な措置を講じるよう呼びかける。
157 人種差別等の過去と現在
人種差別等の過去と現代的形態の結果が、東アジアの平和と安全、多くの人民の人間の尊厳、人権と基本的自由の実現にとって重大な障害となっている。
158 人種差別等の人権侵害性
人種差別等により引き起こされた人権侵害の犠牲者は、社会的、文化的、経済的に被害を受けやすい状況に照らして、そうした差別の結果として受けた損害について公正で十分な補償や満足を求める権利を含めて、適切な場合の法律扶助、そして効果的かつ適切な保護や救済を含む司法へのアクセスを保証されるべきである。多くの国際人権文書と地域人権文書、なかでも世界人権宣言と人種差別撤廃条約に示されているように、人権侵害被害者に対する救済を実現するべきである。
159 和解と正義のために
過去の犯罪や悪事を想起し、人種主義や人種差別による悲劇を明白に非難し、歴史の真実を語ることが、国際的な和解、正義、平等および連帯に基づく社会の創造にとって必須の要素である。真実を解明し、深刻な犯罪を非難すること抜きに和解を語ることはできない。正義と和解は無関係のものではなく密接な関連を有するので、両者を対立させて二者択一を迫るべきではない。正義から切り離された「和解」は、歴史の真実を隠蔽することにつながる。
160 クマラスワミ勧告
1996年のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」が日本軍性奴隷制に関して日本政府に対して勧告したように、日本政府は法的責任を認め、真相を解明し、被害者に謝罪と補償を行うべきである。
161 道義的責任と法的責任
日本軍性奴隷制のような重大深刻な悲劇については、関連するすべての諸国および人民に道義的責任が意識されるべきである。道義的責任は、関係者であれば誰もが痛感するべき責任である。加害者である日本政府が、道義的責任を口実に法的責任を逃れようと弁解することは、道義的責任の悪質な濫用である。道義的責任を口実とする「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」は、日本政府の責任逃れのための策略として厳しく非難されなければならない。アジア女性基金は、日本政府の法的責任の回避に利用され、被害女性を再び傷つけ、被害各地域の被害者支援団体を誹謗中傷し、正義と和解を求める日本社会の運動を混乱させた。
162 女性国際戦犯法廷勧告
2001年12月4日の「女性国際戦犯法廷」判決の勧告に従って、日本政府は、第二次大戦前および戦中に行った日本軍性奴隷制が人道に対する罪と戦争犯罪であると認め、自ら犯罪を行った個人のみならず、日本政府の犯罪関与責任を認定し、被害者に対する謝罪と補償を行なうべきである。
163 人権理事会普遍的定期審査勧告
2008年5月9日、国連人権理事会が、その普遍的定期審査(UPR)の結果として行なった勧告に従って、日本政府は、第二次世界大戦中の日本軍性奴隷制問題に関する、国連諸機関(女性に対する暴力に関する特別報告者、女性差別撤廃委員会および拷問禁止委員会)による勧告に誠実に対応し、日本における継続的な歴史の歪曲の状況に取り組む緊急措置をとるべきである。
164 女性差別撤廃委員会勧告
2009年8月7日、女性差別撤廃委員会が行なった勧告に従って、日本政府は、第二次世界大戦中に被害を受けた「慰安婦」の状況について日本が永続的解決を見出していないことを認め、学校教科書にこの問題に関する記述を復活させるべきである。日本政府は、女性差別撤廃委員会勧告に従って、被害者補償、加害者訴追、これらの犯罪に関する公衆に対する教育を含む、永続的解決を見出す努力を緊急に行うべきである。
165 重大人権侵害被害者の権利回復
日本軍性奴隷制に関連する国際機関による諸勧告が提案した解決は、重大人権侵害のすべての被害者の権利回復のためのモデルを提供している。日本政府は、植民地支配及び第二次大戦の時期に行った諸政策の結果として生じた、強制連行・強制労働、軍人軍属、BC級戦犯問題、七三一部隊被害者、南京事件、細菌戦、戦略爆撃など数々の重大人権侵害の被害者に対して、真摯に謝罪し、補償するべきである。
166 人種差別等被害と責任
植民地支配や第二次大戦時における歴史的悲劇に根源を有する東アジアにおける人種差別等について、日本政府は、その歴史的責任を自覚し、事実を明らかにし、被害者に謝罪と補償を行うべきである。
167 ディエン勧告
2006年3月31日のドゥドゥ・ディエン「人種差別等特別報告者」が、日本政府に対して行った勧告に従って、日本社会に人種差別や外国人排斥が存在することを、正式かつ公的に認め、人種差別禁止法を制定するべきである。
168 先住民族権利宣言
2007年9月13日、国連総会で採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に従って、日本政府は、先住民族が他のすべての民族と平等であることを認め、アイヌ民族の先住民族としての権利を認めるべきである。
169 人種差別撤廃委員会勧告
2010年2月24日、人種差別撤廃委員会が、日本政府に対して行なった勧告に従って、日本政府は、包括的な人種差別禁止法を制定し、アイヌの権利に明確に焦点を当てた行動計画を含む政策やプログラムに結実させ、沖縄の人びとの被っている差別を直視し、彼女/彼らの権利を推進し適切な保護措置・保護政策を確立し、朝鮮学校に対する差別などの朝鮮人差別を撤廃するべきである。
170 国際機関の勧告と日本政府
国連人権理事会、人権小委員会などの遠く別報告者による勧告、国連人権理事会の普遍的定期審査による勧告、国連人権理事会の特別報告者による勧告、自由権規約委員会・女性差別撤廃委員会・人種差別撤廃委員会など馘首の条約に基づく委員会による勧告など数々の勧告にもかかわらず、日本政府は、日本軍性奴隷制度の被害者にも、今日の人種差別被害者にも、謝罪も補償も行なっていない。アメリカ、カナダ、オランダ、EU議会による勧告も受け容れていない。日本政府は、他に類例がないほど数多くなされてきた勧告を受け容れて、重大人権被害者に謝罪と補償を行うべきである。
171 国内人権機関
日本政府は、2010年6月、パリ原則に従った国内人権機関の設置の方向性を示した。これまで独立した人権機関の設置を拒否してきた日本政府が方針を転換したことを歓迎する。設置される国内人権機関が、本宣言で繰り返し言及してきた重大人権被害者の権利保護と救済に役立つようになることを期待する。
172 日本社会の責任
本宣言で取り上げられた重大人権侵害や人種差別等について、日本社会は、日本政府に責任を取らせる責任がある。日本社会(NGO、人民)は、アジア各地の被害者や被害者支援団体や、国際的な人権ネットワークの協力を得て、これまで以上に日本政府に対する圧力を強化するべきである。日本軍性奴隷制問題の解決を求める立法提案を確実に実現するためいっそうの努力を払うべきである。日本各地の自治体における「慰安婦」問題の解決を求める決議を実現した日本の市民に感謝する。同種の決議をさらに促進して日本政府に圧力をかけることが必要である。
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「ダーバン宣言の東アジア版をつくろう――日本の植民地主義を問う」連続インタヴュー講座
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2001-07-12T01:42:00+09:00
2010-09-10T18:02:15+09:00
2010-07-12T01:46:32+09:00
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「ダーバン宣言の東アジア版をつくろう――日本の植民地主義を問う」
主催「東アジア歴史・人権・平 和宣言」実行委員会
第一回 7月18日日曜 午後6時開場 6時半開始
講師
徐勝さん
「韓国併合100年にさいして日本植民地主義を徹底解剖するために」
会場 新宿区立「牛込箪笥地域センター」アクセス地図 会議室「バラ」
ヤフー地図 拡大・縮小・移動可能
「牛込箪笥地域センター」
用意されたインタヴュー項目
1)韓国併合100年に際してまず思うこと
2)なぜダーバン宣言か——植民地主義と奴隷制
3)なぜダーバン宣言か——植民地主義と人種差別
4)東アジアの植民地主義と差別について
5)東アジアの「歴史的人権」という言葉で何を言おうとしているのか
6)東アジアの冷戦構造を打破するために
7)東アジア宣言は何をめざすか——大目標と当面の目標
註 講座の冒頭のやりとりだけ記します。概要は「通信」、テープ起こし、ブックレット刊行をお待ちください。
前田 この講座では「東アジア宣言」全体の基調にあたることをソ・スンさんに引き受けていただく
項目案があります。概ね、これにのっとって進めます。ソ・スンさんが思うこと、とっかかりを話してもらいます。
ソ・スン 併合百年を迎えて感じていることを話したい。日本では「併合100年」に関する特集が雑誌に出ている、各新聞も取組む。
韓国では自分たちの問題で盛り上がる。日本に比べて盛り上がりが少ない
「世界」誌で荒井先生が論文を書かれている。韓国との歴史共同研究がうまくいかない。
これはどうしてか。国交回復のときうまくいっていない。日中はうまくいった。「真珠湾攻撃、連 合国への責任ははっきりしているが、植民地支配責任ははっきりしていない」
歴史認識、出発ではっきりしていない
韓国自体、植民地支配、体験が整理できていない
過去清算、脱植民地問題ができていない
図書新聞の新年号に書いた
南北に分断されて冷戦が始まり、韓国が植民地時代、親日派清算に失敗した
親日派事典、親日行為真相究明報告書が出たが激しい反発がある
韓国社会で今、植民地近代化論が主張され始めた。植民地支配はよかった点もある、経済的には発 展もしたそこを評価しよう、地下水脈として伏流していた経済史をやる人により提起された
親日派事典、韓国国内でとくに現在のイ・ミョンバク政権から反発があった
親日は愛国、こういうことは本音、公然と話はできなかった。政権が昨年出発した
建国節を祝いたいという主張が出ている。
建国の大統領、イ・スンマンを、パクチョンヒを再び復権させよう
分断国家を樹立が重要、昨年は韓国で、光復節、建国節明確な規定がされていない
最大の問題は韓国自身がどのようにみるのか
以下、大幅略。
第二回 9月4日土曜 1時半開場 2時開始 講師
金 栄さん 在日朝鮮女性史研究
「在日朝鮮人から見た日本の植民地主義」
「在日朝鮮人から見た日本の植民地主義」
1)京都朝鮮学校事件に思うこと――日本社会による差別
2)高校無償化問題に思うこと――日本政府による差別
3) 金さんの個人史(朝鮮学校時代)・・・差し支えない範囲で
4)植民地主義・植民地支配責任が問われてこなかったこと(『歴史と責任』論文)
5)植民地主義とジェンダー(『軍隊と性暴力』より)
6)100年というスケールで日本と朝鮮の関係について改めて思うこと
7)東アジア歴史・人権・平和宣言第一次案について(修正意見その他)
第三回 9月7日火曜 6時開場 6時半開始 講師
上村英明さん 恵泉女学園大学教授・市民外交センター代表
「ダーバン宣言って何だ?~植民地主義と人種差別の歴史的責任を問う~」
<インタヴュー項目案>
1)ダーバン宣言から9年を振り返る――十分活用できなかった理由
2)ダーバンへの道――世界は何を期待したか、日本NGOはどう準備したか
3)NGO会議――いくつかエピソードを、日本NGOの活動
4)本会議の様子(1)――警備、NGOのアクセス、
5)本会議の様子(2)――政府間の対立状況、アフリカ諸国、JUSCANZ、アメリカとイ スラエル
6)ダーバンからの道――成果、特徴、限界
7)東アジア宣言について思うこと
参加された静岡の増田都志美さんからご意見をいただきました。
本人の確認を得て掲載します。
≪今回インタビューに参加した感想です≫
「ダーバン宣言」検討会議とはちがって、インタビユー講座には多種多様なる興味をお持ちの方々が参加されています。漠然と「質疑応答」で終わり、というより、アンケートを作って、その解答を宣言づくりに活かしたらどうか、と思いました。
たとえば、
★「プリミティブな質問ですが、宣言は美文にならないか?」という会場からの質問には、皆さん「国連文章はそのような性格のものである」と返答されていました。私には「なぜ、アジア版ダーバン宣言が、国連のような多種なる当事者が揉める状況でつくられた、”妥協の産物で、その結果のつぎはぎ的文章”を踏襲しなければならないか?」という問いかけに思われましたし、
★女性の方が「ダーバン宣言が出される過程で、(イスラエルとバレスティナNGO間にみられた
ような)本音の対立があったのはわかった。で、その後のアフリカの状況はどうか?」という質問は,「人権宣言、ダーバン宣言、さらに民衆法廷が出した判決等の宣明は、現実問題の解決に力を持ち得る(得た)か否か」という根源的な問いかけにも聞こえました。
上村さんがおっしゃっていた「世界人権会議・ウイーン宣言」については、日弁連が98年10月に(行動計画への積極的関与・協力を決意して)「人権の国際的保障とその効果的実施を推進する宣言」も出しています。
その具体的提案が実行されたかどうか、確認したかったところでした。
クラーク法廷の意味、その継承、判決の現実的展開を考えたとき、特にそのような問いかけは意味深いと感じました。
会場からの質問は(私の問題関心からそのように感じたにすぎないにせよ)今後のために十分な肉付けはできると思いした。)
アンケートに、より具体的に書いてもらって、それらを検討すれば、「東アジアのダーバン宣言をつくる」ための論拠が補強されていくのでは、という感想を持った次第です。
「異論の対話」は、平和への唯一の方法です。
異論を封殺しようとする姿勢が、すべての暴力・虐殺につながります。「法による和解力か」、「武力・暴力による封殺・破壊力か」いずれを選択するかは、人たる私たち次第です。
そして、全体から見た個人ではなく、個別的であり、事実的である私たち個人が、抽象的・普遍性を有するのであって、「平和か・絶滅か」は、まさに私たち個人の生き方にあるのだとい
うことを、再確認すべきと思いました。
会場 第二・三回とも
新宿区立「戸塚地域センター」アクセス地図 会議室1,2ヤフー地図 拡大・縮小・移動可能 3月にオープンした新しい施設です。駅から1分
「戸塚地域センター」
第四回 9月25日 1時半開場 2時開始
講師
崔善愛さん ピアニスト
「<在日>を生きて」仮題
プロフィール (今年2月開催、「韓国併合」100年市民ネットワーク主催のコンサート案内より)
崔 善愛さん チェ ソンエ Choi,Sun-Ae Lois
大阪に生まれ、北九州市の小倉で育った在日2.5世。故崔昌華牧師長女。愛知県立芸術大学ピアノ科および同大学大学院修了。大学時代(21歳)、外国人登録の指紋押捺を拒否、そのことを理由に再入国不許可となるが1986年、世界の舞台で音楽を学びたいという思いを貫いて、米国インディアナ大学大学院に3年間留学。 約20年に渡り、法務大臣を相手に二つの裁判を最高裁まで闘うが、指紋裁判は免訴、再入国裁判は敗訴、永住権を奪われる。しかし、1999年参議院法務委員会に参考人として招かれ意見陳述、その結果永住権の原状回復を成し遂げた。
2005年 指紋押捺拒否裁判から永住権回復までを綴った岩波ブックレット「自分の国を問いつづけて」
2009年影書房より出版された『父とショパン』は、朝日新聞、毎日新聞、神奈川新聞、西日本新聞、サンデー毎日などで取り上げられる。音楽を通して平和の尊さを語るピアニストとして注目されている。
現在、音楽芸術家協会に所属する。
会場 港区立青山福祉会館アクセス地図 集会室AB 地図上の「赤坂高校」は「閉校」して他の都立校の仮校舎ヤフー地図 拡大・縮小・移動可能
区のサイトの徒歩の分数はかなり多めに記されています。以下は距離測定サイトでの「距離」。銀座線外苑前駅 500m 7分程度。青山通り「消防署」の信号、「松屋」の角を曲り青山霊園に向かう。
墓地手前、「赤坂消防署」を過ぎて左折。隣の建物、向かいは墓地。銀座線・半蔵門線・大江戸線「青山一丁目駅」5番出口 550m 8分程度。
10月
第5回 10月9日(土)夜6時開始 青山福祉会館 集会室B
中原道子さん(女性国際戦犯法廷 10年:仮題)
第6回、10月23日(土)夜 6時開始 青山福祉会館 集会室B
宋 連玉さん(脱帝国のフェミニ ズムを求めて:仮題)
第8回 11月6日(土) 6時開始 戸塚地域センター
俵義文さん 子どもと教科書全国ネット21事務局長
第8回 11月20日(土)午 後、会場未定
林 博史さん(戦犯裁判はいかに 行なわれたか:仮題)
主催
「東アジア歴史・人権・平和宣言・行動計画」実行委員 事務局
徐勝(立命館大学教授)
前田朗(東京造形大学教授)
高橋伸子(関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日韓在日市民の会)
俵義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
野平晋作(ピースボート共同代表)
矢野秀喜(強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク事務局長)
亀田 博(東アジアアナキズム運動史研究)
連絡先 maeda@zokei.ac.jp 前田 朗
「東アジア歴史・人権・平 和宣言」実行委員会
連絡先:東京都八王子市宇津貫町 1556
東京造形大学・前田研究室
電話:042-637-8872
企画・全文
呼びかけ人
構成
2010年4月16日UP
宣言・前文(第一次案)2010年4月16日
宣言・Ⅰ 総論(第一 次案)
宣言・Ⅱ 原因と形態 (第一次案)
宣言・Ⅲ 差別の被害者(第一次案)
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の一
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の二
宣言・Ⅳ 韓国併合と差別・其の三
「宣言および行動計画・構成案」 2010年4月18日アップ
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